+ Nieuwjaar +


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うたた寝していたらしかった。

瞬いただけのつもりだった。
けれど一瞬前とは違い、部屋は明度を増していた。
【一瞬】は私の感覚だったのだろう。現実には時間は過ぎているに違いなかった。
くらやみに沈んでいた部屋は、おぼろに輪郭を浮きあがらせている。
適当に服をつめ込んだ衣装箪笥。クローゼットは中途に扉が開いている。雪に濡れたコートをかけて、そのままではカビがくるからと空気を通したまま、閉じるのが面倒になってしまった。取っ手の金具は、今は沈んだ色をしている。まだ夜の範疇にあった。
いつもどおりの私の寝室だ。
――いつもどおり。
違うことは目に映らない範疇にある。
ベッドはいつもよりも深く撓んでいる。
背中はあたたかだった。
髪には、眠りにつく前と変わらない感触があった。
猫を撫ぜる手つきで、男が私の髪を撫ぜていた。

『なんだって遮光カーテンをやめたんだ?』
眠りにつく直前、交わしていた会話がするりと脳裏に甦る。考える前に口にした。

「オランダは、鬱病が多いんやと」
「――唐突なうえ、正月からスバラシイ話題をありがとう、作家先生」
「君が正月にこだわるとは思わへんかったわ」

私は笑った。
重心を移動させて視線を上に流せば、火村はベッドに肘をつき、掌で頬を支え、私を覗きこむふうだった。夜を越えた翳りが、男っぽい顔立ちにセクシュアルな匂いを添えていた。目の色は穏やかだった。猫を眺めるときのような衒いのない視線だ。
目が、吸い寄せられたのを誤魔化すように身じろいで上を向いた。背中から腰にかけて、甘い気だるさが立ちのぼる。
一瞬の冷気がむきだしの肩を刺した。暖房はつけていなかった。必要はなかった。
体温が近づいた。ひやりとした肩は、火村の手で毛布の中に収められた。
指が私の目許を撫ぜる。かさついた感触があった。涙の、乾いた痕の。
先ほどの、猫を撫ぜる手つきとは違って、そこには夜の色合いがあった。
反対に、火村の背後にある窓から、部屋は蒼さを薄めている。

猫がじゃれるように途切れがちな会話を続けた。
「なんで鬱病が多いかいうと、日光の具合らしいで?」
「――冬は夜が続くからか」
北極圏ほどじゃねえだろうが、と火村はごちる。男らしい骨っぽい指が私の咽喉にかかった。くすぐる動きはどうともとれる。猫をあやしているようにも、愛撫にも。ただ、受けとめる側の問題だ。上がりそうになる呼吸を奥歯を噛んで押さえつけた。睨みつけてやりたかったが、そうしたが最後「どうした?アリス」としゃあしゃあと言われることはわかりきっている。私は、できるだけ淡々と続けた。
「それもあるやろけど曇天が多いんやて。朝10時頃にやっと、なんとのう明るなって、3時ごろにもう、なんとのう暗うなる」
人間、お日さんが必要や、ちゅう証左やな。

結ぶと火村は含み笑った。
「それで作家先生は遮光カーテンをやめたわけか。わかりやすいな」
「ほっとけ」
目の前にきた指を齧った。齧って舐めると、私が目を覚ます前に一服つけたのか、タバコの苦味が舌を刺す。火村より先に私自身が追いつめられた。ふと、濡れた息が口を衝く。唇にかかった指が反射のように軽く曲がって爪が私の歯にあたった。染み付いたキャメルが鼻腔に香った。
明るさを増した寝室、窓を背にして逆光の中、あまり、ものに動じることのない男が微かに息を止めたのが感じ取れた。

誘う目つきは、この男と付き合うようになって、覚えた。
多分、そういう目をしているのだろう、私は。
部屋は急速に時間をまき戻し、夜の空気を孕む。
容赦のない力に押さえ込まれながら、火村の髪に光の欠片が止まったのを見る。
眩しさに目を眇めた。
火村の言はある意味正しく、そして間違っている。


*

アムステルダムは水の街だ。網の目のように運河が走る。満々と水をたたえる水路は舗装すらなされない。それでいて道路の、ごく隣りにある。
水が溢れたりしないのかとガイドに問えば、不思議そうな顔を返された。
日本とは違い、山はなく、高低差もないために雨が降っても水かさは急激に増えたりしないのだった。暗い流れは、水がどちらへ向かっているのかと疑うほどの静けさだった。
『土手の補習は常に行います』
ガイドは言った。
『常に決壊しないよう、気を配り、見まわります。一度、あふれてしまえばお終いですから』
言葉は、私の心の奥に常にあったものを揺さぶった。

夜中にホテルを抜け出した。
アムステルダムは線引きさえ間違わなければ安全な街だ。
日本とは違い、コインパーキングも自販機もない。
それは主義主張の問題ではなく、打ち壊され、どんな小銭ですら盗られてしまうからだった。
逆に殺人は、すくない。
シンゲル運河のほとりに立った。
街灯は少なく、夜はひたすらに暗かった。
唇から吐く息が、白い輝きとなって流れてゆく。瞬くほどに睫毛が寒さで凍てついた。
この水は何処に流れゆくのだろう。海に向かうことすら想像できないほどに流れは澱む。

そして私は運河に、自分の恋心をささやいた。火村が好きだといったのだ。あふれそうな想いの決壊は近く、誰も知ることのない異国であることが私のタガを外したのだ。

どうにもできない想いを切り刻み、海に続く水に流してしまおうとした。
夜の中、くらい淵を覗きこむようにして。

けれどそうして捨てたはずの想いは今、巡り巡ってこの手の中にある。

君が何を思って、凄惨な事件に立ち向かうのか私は知らない。
それによって救われているのか、追いつめられているのか。慮ることすら君は許してくれない。
ただ。

私の視線の先に気づいて、火村の視線も窓に向かった。
朝日が火村の輪郭を縁どった。その光は記憶の奥の五月の光に何故か似る。
似ていて、違う。去年も同じ相手と初日の出を見て、けれど過ごし方はまるで違うように。

日は沈み、また昇る。
新しい年、そしていつもと変わらぬ日常の始まりだった。

 

 

 

 ファイルを整理していたら、AA30さまの「ヒムアリでカウントダウン企画」を書いたときに
 考えた「初日の出を見られるほう」の小話が出てきたので。

 元気だなー。2パターン書いてるよ……。ありえん。
 どっちもオランダなのは、オランダ行ってついでに幻想運河読んだばっかりだからだ。
 そして想像つくかも知れんがタイトルはオランダ語の「新年」なのだった。

 思い出した。「これ」はアリスの部屋だから削除したんだー。
 リレーだったから、場面が北白川か夕陽丘か、謎だったんだよね。