+ 交差点にて +


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ほろ酔い加減で我が家の玄関のドアを開いた。
人の気配のない室内は、それでも外よりはあたたかいはずなのだが、不思議と、しんと冷たかった。春になって上下の部屋が暖房を使わなくなったせいだろう。冬場の休日は、日があたれば暖房無しで過ごせるくらいだ。断熱材の恩恵である。不思議なことに、これは冬場だけのことだ。夏場は上下左右の部屋がクーラーをどれだけ入れても我が家には影響しない。マンションの不思議の一つだ。
「あ〜、冷たてちょうどええなあ」
考えたことがそのままペロンと口から出て、少しばかり気持ちを引き締める。手の甲で触れた頬は熱い。思ったよりも酔っているようだ。
続いて入ってきた火村の足取りはしっかりしているようだったが、私と同じだけの量を飲んだのだ。コイツも同様だろう。
今日のコースは我ながら奮発した。メインは、実はワインであって料理でない。アラカルトから魚料理・肉料理に至るまで、料理に合わせたワインをグラスで供されたのだ。そして最後はあらかじめリクエストしておいた32年もので締めくくった。親友の生まれた日を祝って。火村は知らない。私の自己満足だ。
考え事のせいか、革靴を脱ごうとして躓く。容赦なく笑われた。
「足腰弱るなんざ年だな、センセイ」
「喜べ。今日から君は俺より年寄りや」
火村はますます機嫌よく笑う。
「体力年齢はともかく、戸籍上は、な」
くっそー。
「酔うとるだけやっつーねん!」
「そうそう。年食うと酒の回りが早くなるっていうからな」
この減らず口め!誕生日を祝ってやっている友人にそれはなかろう。
しかし笑う火村は楽しげで、まあいいか、と私も矛先を収めることとした。我ながら大人の対応だ。
リビングに入ると暗い中、留守電が点滅している。
「片桐さんか?」
「やから原稿はちゃんと終わらせた言うとるやろ!」
火村が、忙しいはずの4月を大阪まで来てくれたのだ。私とて応じねばなるまい。
その火村はニヤリと笑う。
「わからねえぜ?日付は無事だったのか?有栖川センセイ」
う。そこを突つかれると一抹の不安はあるのだが。
まあいい。聞くか。
留守電のボタンを押す。ピー、という電子音に続いて物静かな男の声がした。
「――有栖川さんですか?川口です。注文の品が届きました。急ぐということでしたので、9時まで店におりますが、そのあとは家に持ちかえります。よければ取りに来てください」
面と向かっているよりも丁寧な口調だ。仕事モードなのだろう。
機械の声が時刻を告げる。入れ違いらしかった。出かける前に聞いていたら帰りに寄ってこられたのだが。
溜息をついて脱ぎかけたジャケットを羽織る。
「アリス?今から行く気か?明日にしろよ」
「そんな遠ない。ちょお行ってくる」
「――人様の家を訪問する時間じゃねえぜ」
「そんなん気にする人ちゃうし――火村?」
靴を履きながらの応えに、リビングにいた火村が隣りに並んだ。そうすると我が家の狭い玄関はいっぱいだ。呆気に取られている間に火村もするりと靴を履く。
「俺も行く」
「は、あ?」
頓狂な声をあげてしまった。
「足腰弱ったセンセイを一人で外に出すのは心配だからな」
言い訳じみたそれに笑ってしまった。
「君、酔うとるな」
いや、どちらかといえば母親の買い物についていきたがる子供か?
想像して吹きだした。
うわ、笑い死ぬ。どんな冗談や、それ。
しかし火村にも子供時代は有ったわけで。
いまだ彼の家族には踏み込めない。彼の過去には。
子供のころはどんな誕生日を過ごしていたのかさえ、臆病な私には訊くことができない。
並んで夜道を歩きながら、なんだかなあ、と頬に手を当てた。眇めた目でちらと見やった横顔は夜を背景に、嫌になるほど端正だ。
谷町筋をヘッドライトが次々と通りすぎてゆく。川の流れのように静かで何故かゆったりとして、ゆき過ぎては戻らないもののように思えた。酔いのせいだろうか、響くクラクションさえ間遠に聞こえる。地下鉄の駅をすぎて天王寺駅の方向に歩いてゆくと夜の静けさは一層増した。四天王寺を通りすぎ、緩やかに坂を降りてゆく。
場所柄、仏具屋が多いせいで並んでいるどの店もすでにシャッターを下ろしている。夜は緩やかに沈黙の帳を下ろしている。火村は何も言わなかったし私も何も言わない。気詰まりではない。言葉はなくとも互いを気にしていると知っている。火村を近くに感じる。
唇から流れた息はただ白く煙った。花冷えの夜。ソメイヨシノは終わり、造幣局の通り抜けがじきに始まる。
浮き立つようなこの夜に、火村は生まれたのだ。
祝福されずに生まれる子供がいることも、今の私にはわかっている。感情的になるよりも、事実として見るべきいくつかのことも。それでもそんな子供はやはり少ない。火村の子供時代の誕生日も祝福とともにあったのだと思いたい。そして今、私たちが互いに誕生日を祝っているのは、ただ、疵を舐めあっているだけではないのだと信じている。

万の祝福を、君に。

口には出さないことだけれど。

キタやミナミの繁華街とは違う。天王寺駅に程近い商店街も仏具屋の並びとたいして変わりはなかった。シャッターは下ろされて人通りもあまりない。中ほどを折れ、照明の碌にない路地に入る。火村がチラと角の店に目をやった。出窓になったウインドウには日本酒のポスターと小さなワインセラーが見て取れる。ここからは見えないが、この男のことだから、曲がる直前に川口酒店という看板を見ていたかもしれない。
勝手口というよりすでに玄関めいたすりガラスの引き戸の隣りには生い茂ったパキラと木立ベゴニアの鉢植えがあった。どこかで沈丁花の甘い香りがしている。梔子とおなじ、香りでおのれを主張する花だ。水気を含んだ夜の空気が似合う。姿は、ちらとも見えなかった。
チャイムを鳴らすとしばらくしてからパタパタとスリッパで廊下を走る音がした。
「あ。やっぱり有栖川さんや」
「川口君、ゴメンな〜。夜遅うに」
先刻の沈黙の間、忘れていた笑顔をするりと顔に貼りつける。火村が隣りで、何か言いたげな表情をした。
「いえいえ。僕としてはお客の我侭にどう応えるか、が腕の見せ所やし、有栖川さんの頼みやったら尚更に。……と?」
川口くんの視線が、私の隣りに寄せられた。
「あ。ゴメン。これ友達やから。こんなツラしとるけど不審者ちゃうで」
「ひでえ言い様だな、アリス」
火村の手が伸びてきて、ヘッドロックを掛けられる。うわ、かなり酔うとる。やっぱり最後のアルマニャックが効いたか。川口君が少しひいた気配がする。ごめんな〜、というように見ると川口君は何故か怯んだように私を見た。どうしたのだろう。
「どしたん?」
やはり言葉はペロリと私の口から飛び出した。
「――――……なんでもありません。
 それよりアリスさん、結構呑んでるでしょう?」
「車乗ってへんで」
「それは常識。じゃなくて、アリスさん、顔に出ないほうなのに、結構赤なってるから。
 ――これ、渡して大丈夫かなあ」
川口君の手には、古風にも風呂敷につつまれた日本酒がある。頼んだ久保田だ。
「あ〜。無茶言うてごめんな」
「お安いご用。今度、呑みに行……いえ、なんでもないです」
「川口くん?」
「いやいや、ホント、今日はそれ呑まないほうがいいかも、だよ〜。今でさえこんな目の毒なんやし」
「はあ?」
どうやら私は自分で思っているよりも酔っ払っているらしい。昔から酒に酔うと周りの人間が意味不明な言動をすると思っていたのだが、火村に言わせればそれは私がアルコールで思考力が落ちているからだそうな。
そのときに「でも火村の言うことはわかるんやけどなあ」というと「……そりゃそうだろ」と投げ出すように返された。昔の話だ。
「このまま持って行っていいよ。風呂敷はまた返してくれればいいから。萬寿だもん。ビニール袋に入れるのは可哀想」
酒屋に生まれた川口君は、それなりに葛藤もあったらしいが、今では立派な三代目だった。そのセリフに微笑むと頭を撫ぜられる。上がり框の彼の方が目線が上なのだ。
「川口君!」
川口君は声を上げて笑う。憤慨した。年上をなんだと思ってるのだ。
「ぐぇ?!」
背後から羽交い締めにされる。
「わぁ!すみません!つい!出来心です!」
何故か知らないが、川口君の謝っている先は背後から私を羽交い締めにしている火村らしかった。
「早く帰ろうぜ」
耳元で、ひやりとするような声がした。

帰り道は行きよりも更に無言だった。なんとなく気まずい。何が気まずいのかよくわからない。先を歩く火村の背中は私をどこかで拒んでいる。
「火村」
呼びかけると歩みを止めた。私が隣りに並ぶまで待っていてくれる。
謝りたい、と思った。けれどそれが何にすらかわからない。そしてそんな謝罪など火村は受けつけないだろう。
再び二人並んで歩き出した。夜風が、頬が火照るほどの酔いをどこかにやった。
「――これな。久保田の萬寿なんや」
火村が私の手元に眼を落とした気配がした。前を向いたまま、できるだけ淡々と言葉を紡ぐ。風呂敷の四隅を対角線に結ばれて、萬の寿は私の手の中にある。
「百寿があって、千寿があって……で、萬寿なんや」
偶然知って、手に入れてくれと頼み込んだ。けれどこの時期、就職や転勤や退職の記念にとあちこちから引き合いがあって、品数自体がどうしても薄くなっている。知っていて15日までに、と条件をつけた。それをすぎれば、必要ないからと。
川口君が夜遅く取りに来てもかまわないからと留守電にいれてくれたのはそのためだ。
「君と呑みたいなあ、思て」
火村の気配が、ふと緩む。
「そうか」
ぽつりと言った。
「そうや」
伝わった、と思った。頬が酔いではなく熱い。
うつむいたまま四天王寺の交差点を渡ろうとした。突風が吹いて急に腕を引き寄せられる。ガシャン、と破壊音がした。急ブレーキとクラクションが交差して、私は状況を悟った。信号を省みないドライバーに悪態をつく前に下を見て悲鳴を上げた。
「萬寿が!」
「馬鹿」
火村に抱きしめられていた。足元で濃密なアルコールの気配がする。クラクラする。もしかしてかなり危なかったのだろうか。私を抱きしめる火村の腕は震えていた。
「祝う人間が無事じゃなかったらどうしようもないだろうが!」
火村の、繕わない声が耳元でした。
震える声が。
交差点の真中で、春の真中で、火村の腕の中で。
唐突に悟る。酒など要らなかったのかもしれない、と。
「ひむら」
少し高い位置にある耳元に唇を近づける。
「誕生日、おめでとう」

ただ、こうして伝えれば。
私が。
君に。

 

 

夕陽丘に行った。ええ、行きましたとも。

 

背景素材はLittle Edenさまから頂きました。