+ 咲かないつぼみ + 


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今夜は久々に火村と酒盛りの予定だった。過去形だ。
電話があったのは昨日だった。
「悪い」
流石の彼も、消沈した様子だった。
「ええで。しゃあないやん」
東京行きの出張が入ったという。
こんなに急に予定が入るのは四月という季節がら珍しいが、風邪をひいた教授の代打であれば納得できる。いや、これはむしろチャンスだろう。彼のキャリアにとって有効なのだ。飲み会の一つが急にチャラになったぐらいで怒れない。友人として喜ぶべきだ。
わかっていても、あまりに急過ぎた。時間を空けるためにうっかり頑張ってしまったせいで、やるべきことがまるでないのだ。
ぽっかりと空いた時間、部屋で鬱々と過ごすのにも飽きていつもと違うコンビニに行くことにした。財布だけを持って歩いていたら、目の端に華やかな彩りが飛びこんできた。それは去年あたりから開店した花屋で、私のお気に入りの店だ。町の花屋さん、といういでたちがいい。軒先には青いバケツに春らしく、とりどり色の花が挿してある。バケツの花は「一本100円」の札がかかっていて、スーパー帰りの奥様方に人気だった。
老夫婦が細々とやっていた金物屋を閉めた後におそらく私と同年代か、少し年上だろうお姉さんが一人で店をはじめたのだ。汚れたガラスはピカピカに拭かれ、薄暗かった店は照明だけが付け替えられて、ショーウィンドウの花をあたたかい色で染めている。路地裏の店のわりにそこそこ流行っているのは値段が安いから、というよりたいそうセンスが良いからだろう。送別会の季節などは、予約の花束がショーケースに所狭しと並ぶのだ。ガラス戸を覗くといつも楽しそうなお姉さんは今日も楽しそうにアレンジメントを作っているところだった。
それを横目で見ているうちに、あっと気がついてこれだけは金物屋時代と変わらない古めかしい木の引き戸をガラガラと開けた。足もとの土間は水を流したあとで丁寧に掃き清められていて、外の埃っぽさがさっと拭われたようだった。店の中は水を含んでひんやりとしている。
「こんにちはー」
「あら、有栖川さん。――外のお花ですか?」
頭を掻いた。私も奥様方ではないのだが、バケツの花をちょくちょく頂く。店の中で枯らせてしまうのは可哀想だからと外に出された花たちは、奥様方の手に渡り、それぞれの場所に引き取られていく。生憎今日はそれではない。
お世話になったイラストレーターの個展がもうすぐ開かれるのだ。私の本の装画も頼んだことがあるから、付き合いは深いといえるだろう。花束のひとつも送らなければなるまい。こういうことは、普通は出版社が手配してくれるものだが、私が我侭を言ったのだ。自分で贈りたいと。――そのわりに忘れていたのは、シメキリが二つあったせいだ。ということにしておこう。
説明すると、お姉さんは「こういう注文受けると有栖川さんも先生なんだなあ、って実感しますね」と笑う。
「やめてください」
パタパタ、と手を振った。近所の人から先生といわれるのはなんとも恥ずかしい。
「どういう絵を描く方なんですか?」
「う〜ん、本人はともかく、イラストの感じはブルー系統やね」
「会場に置くこと考えると……じゃあ、ブルーでまとめて雰囲気壊さない方がいい思いますよ。あと差し色入れて。春だし黄色かな?」
花屋のお姉さんのアドヴァイスに従って、花籠はシックなものにすることにした。中身の花についてはまったくもって任せてしまう。とはいえ会場は東京だ。本人が直接入れるわけにはいかないから、善処する、としか言えないのが不満らしい。全国どこにでも同じ風に花が届けられるというのは便利だが、個性というモノは削がれてしまう。グローバリズムの弊害だろう。
「花屋のネットワークじゃなくてもいいですか?活け込みやってる友達のところに直接頼むから、良いふうに仕上げてくれると思うんだけど」
「任せます。……東京におったんですか?」
プライバシーだとは思えど、ちょっとばかり好奇心が湧いた。
お姉さんの、飴玉色の目がくるりと一周回った。
「向こうの生花市場勤めて、そのあと店持ってたんだけど。う〜ん、東京は難しいわ。ホント」
過去形のそれに、「そうですか」としか言えない。
お姉さんは笑った。
「駐車場代だけで月12万とかの世界だから。入ってくる金額が大きいから、つい気が大きくなっちゃうの。
……親不孝なんよ。こっちに帰ってきて事務職3年やってたときは、親は泣いて喜んでたんだけど。……また泣かせちゃった」
ぺろりと舌を出す。
会社員からヤクザな小説家になった身としてはなんだか他人事には思えない。
それでも彼女は幸せそうだ。花が好きなのだろう。私が小説に向き合うように。
「じゃあ、5月1日に届くようにしておきますね」
「宜しくお願いします」
「あ。有栖川さん、これ持っていきます?オマケです」
注文表の控えを切りとってくれた後、お姉さんが足もとのバケツを指差した。赤いスプレーバラが咲いている。
「ええんですか?」
「もう、かなり咲いちゃったからあんまりもたないし。今から外に出すんだけど、出したらすぐ、売れちゃうし」
ということは、一本100円か。
「じゃ、遠慮なく」
厚意に甘えることにした。ところが作業台に取り上げたバラの、たくさんついた蕾にハサミを開くので少し慌てた。
「蕾やのに切るんですか?」
「先のほうの蕾は、小さいから咲かないんですよ。咲かないけど栄養は食うから、はじめから切っておいた方が今咲いてる花が長持ちするんです」
「そのままで、ええですから。――切らんといてください」
お姉さんは、え?という風に私を見た。
私は思わず目を逸らした。2度は言えない。
「ああ――はい。わかりました」
何かを納得して、隣りに積んである英字新聞でバラをくるくる巻いて渡してくれる。苦笑した。妙齢の美女ならともかくこんなおっさんではまったくもって似合わない。
差し出された花をもって、夕焼けの中を部屋に帰った。

部屋に帰ると留守電が明滅していた。
横目で見ながらベランダに出た。空は赤く染まっている。夕陽丘の名の通り。通天閣のてっぺんは明日も晴れだと示している。
瓶の日に、不精をして出さなかったワインボトルの山を探すとピッチャータイプのものがでてきた。キッチンで軽くゆすぐ。水を半分ほど入れて貰ったバラを挿すと茜色の部屋が更に赤みを増すようだった。指先でつつく。花屋のお姉さんの言葉どおり、茎の先端についた蕾は小さすぎて咲く気配すら見せない。
横目で見ながら留守電を再生した。
ピー、という電子音の中にざわめきが混じった。
『俺だ』
どこの俺様やねん、と心の中で思う。声を聞き間違えるはずもないけれど。
『今日はすまなかった。明日、早く終わったらそっちへ行く。……ああ、すみません。行きます――アリス、誕生日おめでとう』
途中の言葉は、おそらく誰かから声を掛けられたのだろう。その返事のようだった。早口で言って電話はそこでプツリと切れる。
「無理しよってからに」
こんな風に優しさを示されると堪らない。
諦めることができなくなる。
「阿呆」
目の前の、バラを見る。
咲かないつぼみがあったって別にかまわないではないか。
目を閉じてふたたび再生ボタンを押した。
火村の低い声が茜色の部屋を満たした。

了  (2008.4.11 彩)

 

 

 

素材提供: NEO HIMEISM