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「さて、」
助手に渡された郵便物の中に、同期の結婚式の招待状を見つけて火村は僅か、苦笑した。火村がまだ、北白川の下宿にいるとは思わなかったのだろう、往復葉書は社会学部気付で来ている。
『助教授だってな!おめでとう』
書き添えられた祝いに今度ははっきり苦笑する。
こちらが祝うべきだというのに。
短くなったタバコを灰皿に突っ込んだ。返事を書くかと乱雑な机の上に溜息をつき、それでも片づけかけたところでノックが響いた。
「火村君」
「――これは学部長」
振り向いた声がいささか尖ったのは否めない。ノックに対する諾も取らずに入ってきたのだ。
老害め、と思う。とことん合わないのだ。
学部長は火村の手元の葉書をちら、と見る。
「誰か結婚するのかね?」
「同期が」と、火村の返事はそっけない。
「君もそろそろじゃないのかね?同期が結婚する年齢なんだ。世の中には年貢の納め時という言葉もある。誰もいないのならこちらで」
「学部長。ご用件はそれですか?」
火村の声が更に冷える。こういうところがとことん合わないのだ。
学部長は口を閉ざし、わざとらしく溜息をついた。
「まったく君は冗談も解さないのかね?違うに決まっているだろう」
糞ジジイめ!
火村の胸中は罵詈雑言で溢れかえる。これだから妖怪は扱いづらいのだ。
学部長は手元の書類の束を火村に押しやった。ちらと目を走らせれば学会に関する雑務らしい。
「じゃあ、頼んだよ」
あっさりときびすを返す。
見合いよりはマシかと思わせるあたりがまったく食えないジジイである。
火村はいまいましげに舌打ちし、ついで深々と溜息をついた。

「クソジジイめ……」
「ひ、火村先生……?」
おそるおそる呼びかけられて意識が急速に浮上した。とっさに体を起こそうとして、シートベルトのせいで叶わない。目の前には夜の闇に残像の滲むようなテールランプ。状況を把握した。
フィールドワークの帰りだった。隣りを見やると運転席の森下は引きつった笑いを洩らしている。うたた寝しながら、よほど凶悪な表情でいたらしい。
「失礼――」
軽く首を振る。車は夜の谷町筋をすべるように北上する。
フィールドワークには片がついたものの電車で京都まで戻るには遅すぎた。ベンツは修理工場に入っているのだ。ということで、夕陽丘へ送ってもらっている。警察車両を私用に使うなというなかれ。事件は無事に解決を見たのだ。そして口には出さないものの疲れきっていた火村は「夕陽丘へお送りしましょうか」との言を拒めなかった。実のところ、京都駅からタクシーを使えば帰れないことはなかったが、あえてその可能性は黙殺した。
この事件現場にアリスは来ていない。一報を入れたときに、しばしの沈黙の後「すまん、原稿がある」と搾り出すように呟いたのだ。火村には「気にするな」としか言えなかった。
昼には原稿が上がると続けるアリスに「頼むからフラフラの状態で来てくれるな」とからかい混じりに懇願した。遺体の状態は猟奇的な様相を帯びていたのだ。火村の口調にその気配を感じたのだろう、アリスが反発することはなかった。
「火村」
電話を切ろうとした火村を、アリスは呼びとめる。
とっさにそうした風だった。次の言葉までに間があったからだ。そうしたアリスの心の揺れは、殺人事件の殺伐さにすでに心が飛んでいた火村をこちら側へ引き戻す。何故かいつも、目から鱗でも落ちるように突き詰めきった神経をほどくのだ。
「――明日も捜査があるんやったら、ホテル有栖川を使いや」
「ああ、遠慮なく、だな」
少し笑って受話器を置いた。

信号待ちの場所からは、ビルの谷間に、アリスの住むマンションが浮かんで見えた。手前に見えるビルのほとんどは、オフィスのものが多いせいで暗闇に沈んでいる。アリスの部屋の明かりが際立った。
「ああ、起きてるな……」
「は?」
頓狂な疑問符が隣りであがった。首を真横に捻れば森下が目を丸くしている。
「どうかしましたか?」
「いえ、」
言葉だけは否定だが、投げかけてきた森下の視線はありありと驚愕を浮かべている。
「ええと、明かりでもついていたんですか?」
「ええ、居間に」
答えると黙り込んだ。
真っ直ぐに前を向いたまま森下は息を吸い、変わった信号に、ゆるやかにアクセルを踏む。
「よくわかるな、と思いまして」
一拍おいて返事が打ち返される。一瞬、意味を掴み損ねた。森下の横顔は苦笑めく。
「だって有栖川さんの部屋、7階じゃないですか。僕、自分の部屋は5階ですけど、昼間でも自分の部屋の判別なんか、つかないですよ」
そんなものだろうか。火村には首を傾げるほどにその感覚はわからない。
車がなければ天王寺駅から歩くから、火村がアリスの部屋を見上げることは数多い。歩くには夕陽丘駅からの方が近いのだが、必要に駆られ、食品を買いこんで行かねばならぬことが多いのだ。――というか、それが大抵で。夕陽丘駅は住宅街に近いだけあってそうした買い物には不便だった。パン屋とコンビニぐらいならあるが。
そうして荷物を抱えてアリスを訪ねるとき、火村はよく、アリスのマンションを仰ぐのだ。
あの部屋に、アリスがいるのだと。
こうしたフィールドワークの帰りには、その確率は格段に高いのかもしれなかった。
アリスは、火村がどんな状態で訪れようといつも何気なく迎え入れる。
(よお、火村)
やわらかい口調とともに。
黙り込んだ火村に森下もまたそれ以上言葉をつむぐことはなく、パトカーはすべるようにアリスのマンションの手前の角に停められた。さすがに前に横付けしないだけの良識はある。
「有栖川さんによろしく」
告げられた言葉に軽く眉を跳ね上げた。何故とは知れないが不快だった。
言葉に含まれたアリスへの好意が。
ドアを開け、降りようとした姿勢のまま、振り向いた。
「森下さん、カレーはお好きですか?」
「は?ええ、好きですよ」
「では、上がって行かれますか?多分、アリスのことだから山ほどカレーを作っているでしょう」
どうしてこんなことを言っているのか自分でも知れなかった。
今日は5月7日だ。そしてアリスは火村がフィールドワークに出ていることを知っている。アリスは多分、なんでもない顔をしているだろう。そのくせ滅多に作らない手料理を振舞って、火村からの軽口を待っている。
「夕飯はカレーだとでも言っていたんですか?」
森下の唇は柔らかくたわめられていたものの眼差しは険を含んだ。火村を糾弾する。それが不思議と心地よい。
「今日はアリスとはじめて会った日なので。カレーを奢ってやったんですよ」
約束ではないことを言外に告げる。
「――自覚は、ないんですよね。火村先生」
森下の口調は呆れた風だ。何の?と問う前に「遠慮します」と肩を竦める。
アルマーニのスーツなんぞを着ているのにそうした仕草が厭味でないのは彼の育ちがいいからだろう。軽く、手を振られた。
「明日は9時から取り調べに入ります」
「――わかりました」
こういう表情でいるとき、人は強情に口をつぐむことを火村は知っている。
諦めてパトカーを降りた。先刻までの丁寧さが嘘のように森下の運転は荒っぽい。
見送るでもなく眺めた後、重い身体を引き摺ってアリスのマンションの前に立った。
仰げばやはり702号室は皓と明かりが灯されていた。ふと息をつく。
「普通は自分の家でも識別できない、か」
だが火村には、わかるのだ。
吸い寄せられるようにアリスの部屋だけは。
しばらくその明かりを眺めた後でマンションに入った。エレベーターで7階に上がる。いつもは感じない軽い浮遊感が増幅されたように耳にくる。エレベーターの中は現実感を乏しくしそうなほどに明るかった。振り切るように7階で降りるとキーホルダーを探る。ベンツの鍵は本体とともに修理工場にある。いま、ここに残るのは。
あまり使われない、削りのあとの硬い鍵を握り込む。
アリスの部屋の合鍵だった。だがこれは非常用だ。握り込んだままチャイムを鳴らした。
とんとんとスリッパを履かない足音がして、鍵が開けられた。まったく無用心なことこの上もない。肺腑の奥からのぼってきた息をあえて溜息に変えた。
「よお、お帰り。火村」
予想どおり、呑気な笑顔に出迎えられる。作家先生はさほど窶れた様子でもない。前に会ったときよりも髪が伸びたふうなのが部屋に篭っていた名残だろう。眠って、起きて、髪を洗ったあと、碌に乾かしもせずにカレーを作っていたのだろう。アリスからはスパイシーな匂いがしている。口元だけで笑う。
「締め切りあけにカレーとはへビィだな、作家先生」
「五月蝿いわ。材料があっただけでも褒めてくれ」
火村は一瞬、考えこんだ。よく考えればそれは驚天動地だ。
「おお!凄いじゃないか!アリス」
「君、それ褒めてへんやろ」
上目使いに恨みがましい視線は深刻さを孕まない。影のように付きまとった血なまぐささが薄れた。呼吸が楽になる。
僅かに俯いた。
本当は知っている。
(自覚ないんですか?火村先生)
森下のあの視線。与えられるものを当たり前のように享受していながら、なにも返さない火村の非道さを糾弾するあの視線。
唇を歪めた。
「火村?疲れてるんちゃうか?風呂沸いとるで」
気遣う言葉。
顔を上げればアリスの視線は心配げだ。火村には珍しく、ゆれる心がそのまま唇から溢れ出た。
「――そうじゃない。――いや、そうかもな」
「はよ、風呂入ってき。今からカレーついどくわ。それぐらいで君には丁度ええやろ」
「ああ。――アリス」
さしまねくとアリスはきょとんとした風で無防備に火村に近づく。
抱きしめた。
アリスは無言で硬直している。だが拒絶はない。そうであることなどずっと以前から知っていたのだ。
「――どしたんや?君」
気遣う言葉がそっと差し出された。フィールドワークで何かあったと思ったのだろう。
それもまったくの間違いではなかったけれど、そうではなく。
火村は妖怪に言われた言葉をしみじみと思い返していたのだ。
老害だという見解は変わらなかったが、先人の言うことも、たまには真理を突くらしい。
くつくつと笑う。負けたとは思えど不思議と悔しくはならなかった。
「火村?大丈夫か?」
「いや。――年貢の納めどきっていうのはこういうことかと」
沈黙が落ちる。
「――なんやそれぇ?!」
慌てる作家を抱きしめたまま、火村は気がすむまで笑いつづけた。

了 2008.9.30 彩

 

 

火村は速攻で年貢を収めたと思います。

 

 

背景素材はNEO HIMEISMさまから頂きました。