+ 恋をしない人のための千夜一夜 +


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第一夜


窓の外には夕闇が迫っていた。風が少し吹いているのか、窓がきしみをたてている。木造の中学校のような、升に組まれた木の窓枠には、はめ込みのガラスが夕陽の最後の輝きを受け止めている。端が橙に光っていた。なんの変哲もない夏の夕暮れだ。外の熱気がガラス窓を通して病室にも迫っていた。蝉の鳴き声がわずかに弱まる。
「君、阿呆やろ」
病院のベッド脇で深い深いため息ののち、しみじみとのたまったのは、10年来の付き合いである推理作家だった。
火村はまったく反論できず、ベッドの上でそっぽを向いた。夕日がまなざしを焼いて、目を眇める。
身じろぎで挫いた足が痛んだが、それよりむしろ、有栖の指摘のほうが堪えている。それがまったくの事実であり、反論の余地がなかったからだ。身から出た錆と言っていい。今までのツケが一気に押し寄せてきたのだった。
火村は、一見そうは見えなくとも、本来、考え深い性質である。
思考し、判断し、行動に移す。その間隔が短いため、あまり考慮なく動いているように見えるときもあるようだが、そうではない。いくつかの可能性を比較し最良のものを選んでいるつもりであった。普段、その相手をさせられるのはもっぱら目の前の推理作家で、彼は時々「見えすぎるのも大変やなあ」とぼやく。
それはともかく火村としては冷静に世の中を渡ってきたつもりであったが計算とは違うところに落とし穴は存在したのだ。自業自得の4文字が脳裏に浮かぶ。
立てかけてあったパイプ椅子を開いて腰掛けた有栖は火村をまじまじと見つめている。
子供が初めて見た動物を観察するような、好奇心あふれる視線に火村は少々居心地が悪い。こうしてまじまじ観察されたのは、初めて会って以来だろう。ため息をついて顔を友人のほうに戻した。口に出して言わなければ、彼はしばらくこのままだろう。
「なんだ?」
「うん、いや」
やはり本人に自覚はなかったのか、問いかけると有栖は苦笑した。
見上げた視線の先で白熱灯がちらちらと明滅していた。警察病院の天井は古びており、シミが茶色く浮いているが、それがかえって火村が長年居住する下宿のような、奇妙な安心感があった。空調がのどかな響きをたてている。これまた昨今無音のエアコンと対をなす。音ばかりであまり涼しくはならないのもそうだ。首筋に汗が浮いてきた。払うとそこが痛む。鏡など見なくとも痕になっていることは想像に難くない。指の形をしたあざだ。傍らで有栖の息を呑む気配がした。けれど彼はなんでもないような声を出した。いつものごとく。
「いや…、君も男やったんやなあって。
 そのまえに君ってメンクイやったんやなあ。講師の彼女も看護師の彼女さんもめっちゃ美人さんやった」
嫌みのない、むしろ素直な感嘆に火村はあからさまに顔をしかめた。
居心地の悪さが倍増した。





そも、何故に足をくじく羽目になったかといえば、端的に言うならば痴情のもつれの一言である。フィールドワーク中であったことが災いした。訪れた女子大、被害者の担当である講師の顔を見て火村は内心、穏やかでなかった。それでもフィールドワークは個々の事情とは別だと冷静を装った。そしてそれが拙かったことはすぐさま証明された。
被害者の、殺された当日の様子を講師から無事に聞き取り、何事もなく過ぎたことにほっとしたのもつかの間、火村は彼女に階段から突き落とされたのだ。火村の冷静さにカッとなったとのちに女は供述した。事件とは全く関係のない衝動だった。
大阪府警の面々の前で醜態をさらす羽目になった。
それだけならまだしも入院した病院に、以前、『関係』のあった女がいたことは火村にとって運の尽きだった。さしもの火村も自分の来し方を振り返らざるを得なかった。
講師も看護師も、火村の意識からすれば『割り切った関係』であったのだが、相手にとっては違ったらしい。
『お付き合いをしていた』と二人が二人ともに口をそろえたことに火村は絶句した。
ベッドだけの関係だと、あれだけはっきり言ってあったにも拘らず、だ。女という生き物は理解不能だと火村は思う。
「君、他にもおるやろ」
断言したのは隣に腰掛けた推理作家だ。推理でも何でもないそれだというのに、火村は一瞬、斬りかえしを忘れた。有栖はわしゃわしゃと髪をかいた。ため息をついている。付き合いが長いと、こういうところが便利で不便だ。まいっている事実など有栖以外であれば気付き得なかっただろう。
カチャ、と個室の扉が開いた。疲れの残る表情で現れたのは森下だった。





すわ、彼女が女子大生殺しの犯人かと被害者の担当講師を取り押さえた鮫山と森下に、火村は彼女との『付き合い』、その詳細を話さざるを得なかった。私事を語ることが嫌いだなどとは言えなかった。あれは一種の羞恥プレイだ。いろいろな意味で思い返したくもない。
そのため講師が犯人であるという誤解は解かれたものの、足を挫いた火村は警察病院で一夜を過ごすこととなった。大丈夫だと言い張っても、フィールドワーク中の事故であり、一通りの検査だけはかけずにはおけなかったのだ。有栖と森下が火村の入院に関するあれこれを受け持ち、病院を出たところで電源を入れた森下の携帯が鳴った。府警に報告に赴いた鮫山からだった。そして火村の意見を聴こうともう一度病室に戻った彼らが見たのは、看護師に首を絞められていた火村だ。もう無茶苦茶だ。
「彼女には、とりあえず、帰ってもらいました。でも……」
言いよどんだ森下は、誤魔化せないことだと言葉を続けた。本日2回も立ち回りを演じることになったために、いつも颯爽としたアルマーニも袖が擦れていた。
「この病院に勤め続けるのは無理かもしれません。彼女、看護師長に喋っちゃったんですよ」
沈黙が落ちた。
さすがの火村も落ち込まざるをえない。看護師の彼女もまた、火村の首を絞めたのは衝動だと語ったからだ。他の女にあやうく殺されるところだった火村に、それぐらいならいっそと血が上ったという。衝動を証しするように、彼女の首の締め方は医療従事者のそれではなかった。冷静であれば気道を絞めたはずだ。警察病院の看護師だ。その気になれば、殺人に係る知識くらいは持っている。もっとも彼女の行動が、衝動からのそれだったからこそ火村は助かったのだが。

「君、結婚せえとは言わへんから、しばらく恋人作り」
長い長い沈黙の後、ため息とともに有栖が言った。
「フリーでおるからこういう騒ぎになるんや。対外的に恋人おったら、今、君と『お付き合い』してる相手も下手な希望は持たへんやろ」
『お付き合い』のセリフに含みはあるものの、有栖の提案は色恋に関して真面目な彼にしては破格の提案だ。だが火村は一顧だにせず鼻で吹いた。頬には嫌悪の色を刷く。
「冗談じゃねえ。恋人なんざ、うっとおしいだけだ。それにその女が恋人ヅラして周りをうろちょろするのか?それこそ冗談じゃねえぜ」
ぎし、と音がした。有栖がパイプ椅子に背中を預けて少し低めの天井を仰いだ音だ。
「君、とことん非道やな」
「それこそ有栖川さんぐらいじゃないと無理ですよね」
「「――は?」」
感心しつつ呆れつつ二人のやり取りを見守っていた森下は、ぽろっとこぼした一言に反応されて、思わず上肢を後ろへ引いた。交互に不思議そうな二人を見やる。有栖川はともかく、火村のちょっとびっくりした表情はなかなかお目にかかれない。ラッキーというか、この先生も人間なんだ、完璧じゃないんだと思えばなかなかに楽しい。
「俺が何やて?森下さん」
「や、火村先生の恋人が、ですけど。傍にいても火村先生がうっとうしく感じない人って難しそうですけど有栖川さんなら」
――おい。
「ちょっと待て」
「それや!」
森下の言葉を同時に遮った10年来の友人、その思考回路は10年の付き合いの火村にしても謎が多い。しかしセリフの内容から、その『かっとび』具合を久々に自分の身で味わうだろうことは予測できた。火村は病室のベッドの上で眉をしかめた。額をおさえる。
無神論者の火村であれ、今、ふさわしい言葉は一つしかない。

ジーザス。





「よし!恋人になろか、火村」
「待て!アリス。それは問題あるだろ?第一、おまえ、ゲイだったのか」
「そんなわけあらへんやん。けど俺はもうしばらく恋人作るつもりないし、そやな、1年ぐらいお互い恋人おるって言うとけばええやん。それで外野はおさまるやろ。君の『お付き合い』しとる相手が五月蠅く言うてきたら会うたるで」
「いや、それは有難いけどな……いや、違うだろ」
混乱のために火村の言葉はあやふやとなる。
つらつら思い返してみれば、ベッドをともにする相手に「とくに今、恋人はいない」などと言い続ければ、それは期待を持たせるだろう。火村にきちんと恋人さえいたならば、そうした期待を持たせる確率は低くなるに違いなかった。――しかし、非道なことに代わりはない。
「問題あるんか?」
正面切って問いかけられて、そのまっすぐなまなざしに火村の反論は成りをひそめた。
特にないような気がする。
いや待て、それが問題のような。
有栖は火村の性格をよく知っている。有栖が言うのは対外的に恋人とはいっても、それは対外的なことだけなのだ。そしてそうだとするならば、火村にとってはまったく悪い話ではなかった。
「けどな、アリス。俺はこの先も恋人を作る気はないからいいが、お前は拙いだろ?本当に恋人が出来たときになんて言う気だ?」
「別にそのまま言うからええよ」
有栖は飄々と言う。
「それにそんなん、一年たってから考えたらええやろ。2年でもええぐらいやけど」
付け足された言葉に、ひとつ思い当たった。
有栖はまだまだ駆け出し作家だ。サラリーマンを辞めて作家一本で食べていくには確かに2年は恋人を作る暇などないだろう。彼の優先順位ははっきりしている。いっそ見事なほどだった。
火村はしばし、考えた。
指が無意識に唇をなぞっていた。
「――そうだな。推理作家のお言葉に甘えるとするか」
「よっしゃ。大船に乗った気でおり」
「ドロ船じゃないといいけどな」
「君、この友情に篤い俺に向かって何言いよるねん」
唇を尖らせる。それから飴玉のような目がくるっとまわった。
「あ、違った。愛情に篤いんやった。……なんや違うな」
さすが大阪人。一人ツッコミ一人ボケを敢行している。火村は遠慮せず笑った。のどの痛みも気にならない。ベッドに横たわったまま流し眼をくれてやる。
「おいおい作家先生。大丈夫かよ」
「うるさいわ」
「あのお〜」
おそるおそるの態で割り込む森下にやっとその存在を思い出した。
4つの目に見つめられて森下はハハハとひきつった笑いを浮かべている。火村は眉を上下させた。
「僕は祝福すればよろしいんでしょうか?」
「当然やろ」
むせかけた火村とは対照的に有栖の表情に衒いはない。
「記念すべき火村の初の恋人やで?――うわあ。めっちゃ可笑しいわ。笑い死にそう」
言葉通り、げらげら笑う。
火村はげっそりした。額に手を当てる。熱が出そうだ。
自分で言ったことながら、初めての恋人が有栖とは、いったい何の罰ゲームだ。
しかし先刻までの鬱々とした気分は知らない間に吹き飛んでいる。さすが有栖だ。可笑しくなった。
「一年間よろしくな、火村」
茶目っ気たっぷりに覗き込んできた有栖に「おう」と返す。
二人同時に噴き出して、そして一日目の夜は更けていった。


第一夜・了 

 

 



 

 当然ながら、この後、二人はちゃんと恋人になるのですー。