+ 恋をしない人のための千夜一夜 + 第5夜


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第五夜


ということで、場所は有栖川邸である。
火村は上機嫌だった。何故にといえば、病院からやっと解放されたからで、好きなだけキャメルを吹かすことができる。借りてきた猫のようにおとなしくせざるをえなかった病院暮らしは飽き飽きだった。松葉杖はそのあたりに転がっている。
「君……ホンマに中毒やな」
ことりとテーブルに灰皿が置かれた。山盛りになった吸殻を流しに捨てに行ってくれていたのだ。置いたと同時に吸いつけた灰を落とす。有栖のため息に軽い灰が浮きかけた。呆れ混じりのセリフも火村の機嫌を損ねない。
「なんとでも」
「ま、しゃあないな。よう我慢しとったほうやし」
褒めてくれとうそぶくと、有栖はよしよしと火村の頭をなぜる。こういうことをしても嫌味でないのが有栖だった。すとんと隣に座り、くっくっと笑う。
「なにが可笑しいんだ?」
「ん?森下さんがなー」
また「くくく」と笑う。
「もったいぶるなよ」
「船曳警部と鮫山警部補に話したんやて」
――!?
噎せた。話すといえば一つしかない。煙草をふかしていたせいでいがらっぽいのどに何度もむせて閉口する。有栖の手が、やや慌てたように背中をさすった。
「大丈夫…ちゃうな?水」
軽やかに立ち上がって水を汲んできてくれる。
「ほい」
「――ああ」
水を通して、やっとのどが潤った。指先が冷たい。改めて言われた言葉を反芻する。
まさか、いや有栖のことだ、担いでねえだろうなと胡乱な気分で隣りを見れば、彼はまったく楽しそうだ。片目をつぶろうとして思わず両目をつぶっている。可笑しい。
「府警公認カップルやで?火村」
「アーリースー」
声音に呪いを込めた。
だが有栖は笑ったままだ。それ以上を言うつもりはないのだ。それで火村は気がついた。
森下は、あんな見かけであってもお手軽な性質などでは決してない。立派な刑事になることを自分に課しているだけに、プライバシーには相応に気遣える人間だ。そうである以上、彼が船曳と鮫山に話したということは、それだけの事情があるはずだ。無意識めいて指先が唇から煙草を抜き取り、軽く灰を落とす。ちらと有栖を見た。まなざしを眇める。
「まあ、相手があの二人だからな」
一人、ごちる。
誘導尋問に引っ掛かったら一貫の終わりだった。
ということもあり得る。
というか、口に出したらそのあたりが真実に思えてきた。
見やった視線の先、有栖は曖昧に笑ったままで答えない。
――有栖はやさしい。
森下はおそらく途方に暮れて、どうすればよいか有栖に相談したのだろう。そして有栖が火村にその事実を伝える役目を請け負った。そのほうがよいだろうと。そしてそれは悔しいほどに事実だった。火村は有栖に甘いのだ。
今とて、こうして先に有栖の口から告げられてしまえば、次に会った森下にイヤミだけで済ませるだろう自分を知っている。溜息めいて煙を吐いた。
「次回、フィールドワークについてくるときは覚悟するんだな、センセイ」
「……なにをや?」
やや、警戒しながらこちらをうかがう有栖をちょいちょいと差し招く。火村の足がまだ、常ではないと知っている彼は簡単に傍寄ってきた。あまい。腰を引きよせて膝の上に座らせる。
「うわっ」
「カップル扱いされるからに決まってんだろ?バーカ」
加減をしたはずだが目測を誤った。有栖の体がバランスを失って倒れこんでくる。火村はあわてた。このままでは有栖がまともに床に落ちる。
「ちっ」
毒を食らわば皿までもの気分で有栖の腰に腕を巻きつけて自分もソファから倒れこんだ。二人して床に転がる。痛い。
ちょっとした悪ふざけ、のつもりだったが自分でも多少後悔した。何より挫いたほうの足を打ちつけたのが痛い。
目の前には怒ったせいか、あわてたせいか、薄赤くなった有栖のうなじがさらされている。表情は向こうを向いてわからない。
抱きしめた体は骨っぽく、明らかに男のものだというのに嫌悪も違和感もなくなじむ。そしてそれは火村にとってはとても珍しいことだ。

『それこそ有栖川さんぐらいじゃないと無理ですよね』

森下の言葉は、正鵠を射ているのかもしれない。
欲望を感じるかどうかといえば、別物だが。
冷静に自分の内側を推し量っていた火村の腕の中、有栖が恐る恐る身じろぎした。
「火村、足、大丈夫か?」
「ん?ああ……、痛めちゃいねえだろ」
「そか」
ほっとしたような有栖の言葉に反省する。今のはどう見ても火村に非がある。にも拘わらず有栖が口の悪さを披露しないのは、ひとえに火村の足の不調のせいだ。
起き上がって、自然に手を差し出してくる有栖の腕に頼って、ソファの上に元通り掛ける。
これも、考えてみればアリスだけだよな、と火村は自分の内側を探るのに忙しい。
手を差し出されて、それが有栖以外の手だったなら、火村はそれを頼ることを善しとしないだろう。
あまり深く考えたりはしなかったが、『恋人』という名称は、なんだか地雷を踏んだ気分だ。
「な、火村、風呂入るの手伝うたろか」
おそらく本人は嫌がらせのつもりなのだろう、嬉々として告げる有栖に撃沈した。
しかし火村はまだ知らない。このあと、有栖が「今夜は君がベッド使い」と言い出すことを。そしてそれをあーだこーだと言いあううちに、「恋人やんか」と一つベッドで眠るはめになることを。
恋人の時間は、まだ361日も残っている。


第五夜・了

 

 

 



 

 次回は第二夜に戻って、かわいそうな森下君のお話なのですー。