+ 恋をしない人のための千夜一夜 + 第2夜


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第二夜


「まあ、あれやな」
船曳がパチンとサスペンダーのゴムを弾く。
「火村先生も運がなかった、ゆうことやな」
それで終わっていいのかと『報告』をした森下はコケかけた。一日に二回も、ひどい目にあった准教授である。
階段を突き落とされたり、首を絞められたり、いやはや。
「どうしますか?」
まったく尋ねる口調でもなく、冷静に鮫山が口にする。なにを?と疑問に思う前に船曳が答えた。
「しばらくは火村先生に頼らんとやるよりしょうがないやろな」
森下は弾かれたように顔を上げた。視線の先、鮫山は驚いてもいない。上司二人の間でそれは既定路線のようだ。
「でも、警部」
絞り出すように言うと、「でももへちまもあらへん」と視線を向けられないまま言葉だけが投げ出された。府警の廊下のその先には暗さしかない。船曳は突き詰めた視線でその向こうを見ている。内容に反して、言葉は静かだった。
「森下、我々は市民の安全を守っとるんや。私生活に問題のある人間を捜査の真ん中に入れるわけにはいかへんのや」
声を無くした。耳の後ろが熱くなり、血が上った後、すっと引いていった。
「案件ごとに確認します」
「それしかないやろな」
上司二人の間でよどみなく話が進む中、森下は再び「でも」と言った。
「――火村先生の私生活はもう安定するんです」
船曳と鮫山が目を見かわした。
「いやに断言するな、森下」
「その後、なんぞあったんか?」
森下は躊躇した。
作家と准教授が『付き合う』ことになった経緯は、確かにこの件が発端だとはいえ、内容があまりにプライベートすぎる。けれど森下の躊躇もなんのその、上司二人の間で会話は滞りなく進んでいった。
「火村先生が安定する、ゆうことは有栖川さんやな」
「有栖川さんがなんとかしてくれたのか――、ふむ、あの二人、付き合うことにしたのか」
「おお」
船曳がぽん、と手を打った。
「なるほど、考えたもんやな。それに有栖川さんが手綱を握っとったらなんぼ火村先生でも無茶できへん。確かに安定するやろな。少なくとも今回のようなことはおきへん、ちゅうわけや」
「それなら、今までどおりでかまわないでしょうか?こちらでお声をかけるか判断しても?」
いわゆる難事件だけが火村のもとに持ち込まれるわけではない。彼の研究に有用そうなもの、すぐに目処がついた事件にも、声をかけることがある。火村が断ったことはなかった。鮫山が口にしたのはそのあたりの事件についてだ。
「おお、まあええやろな。しかしまあ、ヒョウタンから駒、ちゅうのはこういうことやな、鮫やん」
「確かに」
「あのお〜」
和やかに会話する上司に割り込むのは大変に度胸がいる。けれど森下は声を上げずにいられなかった。
ちなみに会話に割り込むのは、今日、二度目だ。(いや、もう日をまたいだか)
「僕、まだ何も言っていないんですけど……」
「なんだ?どこか違ったか?」
鮫山の追い打ちに撃沈する。
「違いません。――けど、瓢箪から駒ってなんですか?」
鮫山は深々と溜息をつく。
「まったく。――もっと、人間観察の目を養え、ケイイチ君」
のちに、作家と准教授が本当に『お付き合い』をする間がらになったと知った時、森下は先輩のこのセリフを思い出すことになる。
ケイジへの道はまだまだ遠そうな森下だった。


第二夜・了

 

 

 



 

 次回は第100夜の予定ー。