+ 恋をしない人のための千夜一夜 + 第100夜


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あんまりアレですが、一応18禁で。
気になさらない方はどうぞー↓








第百夜


月が、出ていた。
細い、頼りない、糸のような月が。
塗りつぶされた夜の中、かすかな光を放つ。
涙にぬれた目ではそれはもう、形を成さない。揺らめくような幽かな光がやっと視認できるだけだ。
「――……っ」
もう声も出ない。
幾度目かの衝撃に有栖の唇から放たれたのは、悲鳴の形をした息だけだ。
その代わりとでも言うように、瞬くたびに両方のまなざしからかわるがわる涙が落ちる。音もなく、水の粒が盛り上がる。意図したものではなく、だからもう、汗と変わらない。――少なくとも有栖にとっては。
伸びてきた指が、気まぐれめいてそれを払った。その注意深い仕草が可笑しい。

この状況をうべなったのは、有栖自身だ。
見くびっているつもりなどなかった。
けれどやはりどこかで甘く見ていたのだろう。その証拠に有栖はもう、思考を繋げていることさえ難しい。それでいて意識を失うこともできなかった。火村からもたらされつづけている痛みと衝撃がそれを許さない。
瞬くたびに視界はぶれる。目を凝らして、自分を抑え込んでいる男に焦点を合わせた。かすかな明るさの中で逆光になってよく見えない。わからない。彼がどんな顔をしているのか。
シーツの上に投げ出されていた手指を無理に持ち上げる。痛い。当たり前だ。肩を押さえつけられている。それに逆らえば痛むことなどわかっている。けれど無心に手は伸びた。皮膚がよじれた上を汗が伝う。ひじを曲げて、自分を抑え込んでいる火村の二の腕に触れる。

びくり

ふるえる肩先に有栖はかすかに笑う。
痛みは全身を覆うというのに、笑える自分が不思議だった。痛みが思考を鈍らせているのかもしれない。よかったと思う。こんなこと、正気ではできない。
手指と同じく、やはり投げ出したような下肢は、火村の性器でつながれている。
恋でも愛でもない行為を、糾弾するほど潔癖ではない。火村と同じく、今日のフィールドワークに充てられたのかもしれない。

フィールドワークについて行って、火村の隣で知ったのは、人が、あまりにも簡単に他人の命を奪えることがある、ということだろう。彼らは、重い衣を脱ぎ捨てたように軽々としていることがあり、時に有栖をいら立たせた。
ひどい事件だった。
だが、ただ酷いだけの事件ならば世の中にいくらも転がっている。
有栖のうちの何かが刺激されたのだ。形あるものではない、なにか。
裏返せば、それは事件の間中、ずっと平静な表情をしていた火村を刺激する事件だったということだ。
部屋に帰るなり、のばされ押さえつけてきた手を、拒まずに受け入れた。
触れられた瞬間、何をされるかわかったのは有栖の身の内に呼応するものがあったからだろう。受け入れたのだ。何をされるかわかっていて。だから罪は有栖にもある。
恋人だという名称を、名称だけだと告げながら、こんなことをしてしまえばそれはもう、今まで築きあげた友情すらも壊すことになるだろう。惜しいと思う理性よりも衝動が勝った。

繋げられているのは体だったが、触れる手のひらから確かな熱が伝わってくる。それは心の温度に思えて、夜が明ければ錯覚だと、手のひらからこぼれる砂のように儚いとわかっていても心が沿うのを止められない。
君のそばには私がいる、と心が叫ぶ。
伝わるはずもないけれど。
伝わればいいと思い、伝わらないほうがいいとまどう。
思考は理性を脱ぎ捨てて乱れ、痛みが勝ることは救いなほどだ。
打ちつけられるたびに、他人事のように声が上がる。
もう、意味をなさない苦鳴の羅列の中で唯一、形となるのは有栖を押さえつけている男の名前だけだ。それを過たず拾い上げてくちづけられると、甘さが体の奥に灯る。それが恐ろしさを呼んだ。
「なんだ…?」
よぎった恐怖すら拾い上げて、さすがに上ずった息のなかから問いかけられる。
聡い男でも、その恐れの理由まではつかめなかったのだろう。
ゆるんだ律動に、彼がまだ、冷静さを失っていないことを、手加減されていることを知る。
そんなものはいらない。
くびを振り、ひむら、と声にならないままに呼ぶ。汲み取ろうと近づいてきた火村に、ぶつけるように口づけた。
歯が当たって思わず眉をしかめる。するどい痛み。口内を切ったのかも知れない。それに頓着する余裕はなかった。
脚が先より曲げられ、さらにふかく火村が迫ってくる。
のどが反って、もう、碌に出なかったはずの悲鳴があふれた。
濡れた音を厭うよりも先に混乱の渦に投げ込まれる。平衡感覚が崩れた。
最後が迫っている。
火村を仰ぎ見ようとしても、ぐらぐらと、視界はせまく明滅する。くらさが増した。
知らず息を止めていた。
一瞬ののちに、つめていた息があふれ、涙が頬を勝手に伝う。
火村の手が、ためらうように伸ばされて、それを払う。そのままゆっくりと髪をすいた。
明らかに事後を匂わせるそれに何かを決定的に壊してしまったことを知って呆然とする。
けれど、近づいてきた唇を避けない。避けることはできなかった。
そのままに、毒を呑むように受け入れる。
目を閉じた。
かすかに光を放っていた月は消え失せて、もう闇しか見えなくなった。


第百夜・了

 

 

 



 

 次回は第110夜の予定ー。