+ Affordance +


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 昨年は無限プチプチなる玩具が流行ったらしい。
 名は体を表すとよく言うが、これほどイメージの湧きやすい玩具も珍しい。ノルスタジーを刺激されて購入したものの私はそれにすぐ飽きてしまった。100回に1回、変わった音が鳴るところなど凝っていて、遊び心はそそられるのだが人為的だというのがどうもいけない。それを言うなら本家本元のプチプチだって人為物には違いないのだが、それはそれ、かまわないのである。本来の目的を外れたところに価値を見出されたあたりが私のツボを刺激するらしかった。
 CDを買った時についてきたプチプチを潰しながらグールドを楽しむ。買ったCDの出番はこのプチプチを潰し終わった後にしよう。

ぴんぽーん。

「はいはいー」
 ソファで寝転びながらプチプチを楽しんでいた私の耳にチャイムが来客を告げた。プチプチはテーブルに放り出して元友人・現恋人(おお!この表現は破壊的だ)を迎えに行く。鍵を開けるなり『お小言』に出迎えられた。
「まったく!おまえは相手を確かめてから出ろとあれだけ言ってるのにどうして聞かねえんだよ!」
「ええやん。君が来るて聞いてたんやし」
「……おまえ、一応名は売れてるんだ。自覚しろ」
 一応ってなんだ。しかしそういうふうに面と向かって軽口でもなく言われると、彼の心配が伝わってきて頷くしかない。
「わかったならいい」
 偉そうだな、という感想は彼の腕の中で消えた。
「ひむ……」
 玄関先で、とか言いたいことは多々あれど、抵抗しないのだから私も同罪だ。
 外にいた火村の唇は冷たかった。たべられる、という感触が私をすこし竦ませる。するりと割り開いてきた肉片は熱くて、生々しくて、それでも浮かされたように溺れてしまう。キャメルの苦味が、あの火村とキスしているのだという実感を連れてくる。濡れた音が、ようやく無我夢中の域を抜け出し始めているセックスを思わせて羞恥に駆られる。そのくせ自分からは引かない。ちゅっ、と音がして唇をなめられた。離れてゆく唇をぼんやりと見つめる。その唇が冷たい、と思ったことなどもう、とうに思い出せなかった。

 だらり、と力の抜けた私を火村が支えている。
 耳元になにか甘い言葉を囁かれているように思ったけれど、思考を手放した私には感覚のほうが鋭敏だった。耳元に火村の息がかかるたびに意思ではなく体が震える。支えられてリビングに連れ込まれた。ソファの背に持たれかかった私に火村は目元を甘く滲ませた。
 その表情だけで、もうどうでもいいような気がする。
「そんな顔、するなよ。まだ夜は長いんだぜ?」
「うっさいわ」
 体の中に溜まる熱を深呼吸して何とか散らせる。このままずっとだなんて考えただけでケダモノの所業だ。
 ひょい、と火村は片眉を上げた。
「それもいいけどな」
 オソロシイ。いま絶対考えを読まれた。
「ま、夕飯ぐらいは食べさせてやろうか」
 ――きっと、これは途中で私が「腹減った」と騒がないための予防措置に違いない。
 じと目で睨む私の機嫌を直すためか「夕飯は鰆の塩焼きだ」と助教授は甘い声で所帯じみたセリフをのたまった。


ぷちぷち
「おい、アリス」
ぷちぷちぷち。
「おいこら」
 取り上げられた。
 火村を睨む。
 火村は溜息をついていた。
「仮にも恋人を放っておいてエアクッションに熱中するなよ」
「エアクッション?」
「エアパッキンとも言うな」
 プチプチのことらしい。
「火村?」
 いきなり抱きしめられた。別段、色めいた意味合いは感じられなかったが。
 もしかすると疲れているのかもしれない。そんなとき恋人はスキンシップ過剰になる。
「なんや?」
「そこにアリスがいるから」
「君はマロリーかいな」
「それでアリスはエベレストか?冗談じゃねえな。登頂は成功してるし」
 マロリーの遺体はエベレストの八合目近辺で見つかっている。ちなみに処女峰エベレストの登頂には失敗したと考えるのが通説のようだ……じゃない。
 処女峰のインパクトに自分で衝撃を受けた。
「そんなに高ないわ。天保山なみや」
 火村を抱きしめる。私の微妙なプライドは、自分で言うのもなんだがエベレスト並みかもしれないが(自覚はある)、それでも君を殺すぐらいなら受け入れるほうがよっぽどたやすい。私の腕はいつだって君のために開かれている。ちなみに天保山は大阪にある日本一低い山だ。我ながらなんとも情けない例えだと口にしてから気がついた。
「マロリーより、どちらかと言えばaffordanceだな」
 アフォーダンス?
 聞いたことのある言葉に脳内辞書を検索する。
 たしか心理学用語で……。
「なお悪いわ。俺はプチプチとちゃう。それに万人が……思とるわけやない」
 抱きしめたい、という一語を入れられない私に火村はくつくつと笑っている。
「違うだろ?アフォーダンスってのは行為を促すわけだ」
 助教授の顔に戻った恋人に少しばかりほっとする。火村のことだから、これも計算のうちかもしれないけれど。
 アフォーダンスというのはギブソンが提唱した理論で、紙があれば破りたい、椅子があれば座りたい、そういう行為を対象の側から見た理論だ。つまり、紙には破らせる、椅子には座らせる、そういう行為を引き出す素地がある、と言う事である。
 謙著な例がこのプチプチで、これには「潰される」というアフォーダンスがあるということになる。このアフォーダンスに人種や年齢は関係ない。子供になにも言わずこのプチプチを与えたって子供は勝手にプチプチして楽しむだろう。それがアフォーダンスだ。この理論に従うならば、火村が私にアフォーダンスを当てはめたのは間違っている。万人が私を抱きしめたいなんて思うはずはないからだ。
「アリスだってこうして俺を抱きしめてるじゃないか」
 にやにや笑いの助教授に、彼の言いたい事を悟って罠にかかったことを自覚した。
『山がそこにあるから』そう言って敬虔にエベレストに挑もうとして死んだ男と比べるなんて間違っていた。こいつは絶対、どんなあくどい手を使ってもエベレストに登りきる男である。手段は選ばないに違いない。
 そんな男だというのに私の手は、火村を抱きしめたままだ。

 ……とりあえず、キスしてやろう。
 抱きしめて、優しくしてやるのもやぶさかでない。
 君もそう、思っているのならいい。
 恋人という名のアフォーダンスには、それを引き出す魔力がある。

了   (08.1.20up 彩)

 

  
  

素材提供:Joli様