+ 暁降 + 


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去った眠りを捕まえそこねて私はベッドを抜け出した。
そろりと足先を床に下ろす。身を起こす時に体が軋んだ。知っていたから一瞬、目を閉じることでやり過ごす。体重を足先へと乗せた。
しけった足先はフローリングの床に密着し、一歩を踏み出す時に、引き剥がす微かな音をたてた。身を捻ってベッドを窺う。
火村の寝息が乱れなかったことにゆっくりと息を吐く。安堵めいたそれに忸怩たる思いが胸を掠めた。
むしろ早足で寝室を通りすぎた。リビングの惨状に今度こそ暗澹たる溜息をつく。
片づけてなどやるものか。……とは思えど、ソファの周辺に散らばる服は居たたまれないことこの上もない。
あの阿呆め。私の体を整えてパジャマを着せるだけの余裕があるなら、いっそこちらも片して欲しかった。
通りすぎてキッチンで水を飲む。このマンションは屋上に貯水タンクを持っているせいで、大阪にはあるまじきことに蛇口から出る水が直接飲めるのだ。冷蔵庫にミネラルウォーターも入っているがそんな気分ではなかった。
生ぬるい水が喉を通り過ぎ、胃の腑に落ちてゆくのがはっきりとわかった。軽い食事もなくはじめた行為のせいで胃の中は空っぽだった。乾ききった喉だけでなく、胃も、いきなりの水に驚いたようにしくりと痛む。拙い兆候だなと感慨もなく考えた。
水の滴る唇をぐい、と拭う。
感情はちぐはぐだ。これ以上ないほど落ちついているようでいて、いつ叫び出しても不思議ではない。鬱屈はいつも私の唇の内側だけに留まっていた。

リビングに戻り、テーブルに置いた火村の煙草とライターを失敬する。ニコチン中毒が寝室に持ちこむ余裕もなかったのだと思えば溜飲が下がるよりも先にやはり居たたまれなさが募った。そのまま横切ってベランダに出る。夜はまだ深い。
季節がよいだけあって多少肌寒い程度だ。そよと吹く風はむしろ私の今の気分を収めるのに役だった。キャメルに火をつけ、二度、三度、浅く吸ってから深々と肺の内側へ摂り込んだ。溜息めいて吐き出すと、脳の一部が覚醒したように冴える。手すりに凭れて夜景を眺めた。東京ほど不夜城ではない。草木はないが、丑三つ時をとうに過ぎて街は眠りの中にある。
静かだった。まるで夜の底にいるようだ。
星はない。
目がかなり慣れて、墨を捲いたような闇の中の景色を読みとれるようになる。それでもどれだけ目をこらしても建物と夜との境界はおぼろで、漠とした怖さを感じた。
見えない怖さ。
それに尽きた。
私と火村との関係もそうなのだろうと思い当たる。
先が見えないから、怖い。

出来うる限り何も考えないようにはしていても、こうして囚われてしまう夜はある。今だけのことだと割り切ってしまえば一つ、心は軽くなった。
私からはじめたことだ。火村との「関係」に悩む資格などありはしないと知っている。
私が手を出さなければ火村は一生を耐えきっただろう。それだけの気概のある男だ。
私が。あの目で見られることに耐えきれなかった。
あれは一種、フィールドワークの齎す熱なのだろうと思う。それ以外の時に火村に餓えた目で見られたことはなかった。火村の、私への感情がないとは言わない。ただ、フィールドワークの後限定のそれに、恋情ではないとわかっていた。だから無視すべきだと。
わかっていて耐えきれずに手を出し、そのくせ今になって思い出したように揺れている。

――仕方がないではないか。こうなるなんて、思いもしなかった。
はじめのうちは良いのだ。嵐のように激しく、切羽詰まって貪られているうちは。
二度、三度、お互いに手に手をとって駆け抜けるように遂情して、火村が正気に戻ると、もうだめだ。――嫌だと言っても聞き入れてはくれない。
耳が熱くなる。何も思い出すまいとは思いながら、目を閉じた脳裏には先刻の情景がよみがえった。体中熱っぽく落とされる愛撫。反応するほどくちづけが濃密になる。それだけならまだしも――人の足の指なんぞ咥えやがって。あいつは私が泣いて、厭がって、恥ずかしがるのが楽しいのだ、多分。
ふるえる手でキャメルを唇に運んだ。
感覚が甦ると貪られ尽くしたはずの体の奥で名状し難い疼きが湧いた。やり過ごすためにひたすらにキャメルを吸いつける。その苦味が火村のくちづけを、囁きを思い起こさせる。
火村はいつもセックスの間中、必死に、苦しそうに私の名を呼ぶ。
はじめから、そうだった。
だからだろう、行為のはじめのうちは手荒に扱われるにもかかわらず、私の中に彼への悪感情が湧いて来ないのは。むしろいつも切なくなって、彼の背中を抱きしめずにはいられない。
これってマズイよな、と溜息をついた。火村との「関係」への悩みなど吹き飛ぶほどに、その衝動は困惑を孕む。
振り向きざま、短くなったキャメルをスツールの灰皿に押しつけた。我が家にはこんな場所でさえ、火村のためのスペースがある。それが私自身を暗示しているようで、少し笑った。


くしゃみが出て、思いのほか冷えてきたのに気がついた。気候が良いとはいえ、パジャマでは当然か。あたたかくしてもうしばらく眠ることにしよう。ベッドに戻れば火村を起こすかもしれない。ソファか。
あの阿呆が気にしないようになにか口実を考えておかねば。
ごく自然にそんなことを考える自分に苦笑する。なんだかんだ言って私は火村に甘い。そして甘やかすことを楽しんでもいる。弱った火村限定だが。弱っていない火村はイヤミが冴え過ぎてむしろ首を締めたくなるほどだ。
リビングに戻ろうと窓をあけた私はギクリとした。
「火村――?ひゃっ」
暗い中、呆然と立ち尽くしていた火村が急に動いて私を抱きすくめる。
というか、いつからいたんだ?
その抱擁には熱烈歓迎というよりもフィールワークの後のような必死さを感じた。
「火村?窓閉めよ?な?」
引き摺られながら提案してみるが火村はちらりと目をやっただけだ。散らかした服を蹴飛ばす勢いでソファに押しつけられる。切迫した状況に気づいた。
「……て、君、やるんか?」
それならなおさら窓を!と慌てた私だったがそれは杞憂だったらしい。火村は私を抱きしめただけだった。しかも力はあまり入ってない。常の火村ではありえないほどにどこか怖々とした風情だった。
「……火村……?」
できるだけそっと声を出す。
「どしたん?」
「目が覚めておまえがいなかったから」
ぼそぼそと私の肩先に顔を埋めて火村は言った。
表情は見えない。明かりのないリビング、月もない今夜、私の目に映るのは火村の若白髪まじりの髪だけだ。
「おるよ、ここに」
「……知ってるさ」
その声が自嘲混じりなことが気になった。
「……火村……?」
「おまえは優しい。優しいが、それが怖い」
不意に刃物を突き付けられた心地がした。
いつも厚いベールに覆って自分を見せない、火村の本音に触れている実感がある。
待っても、火村はそれ以上何かを言うつもりはないようだった。
私は一つ、息を吐いた。
「火村、あのな。はじめに言ったやろ。
 君に関することで、手段があると知っとって指くわえて見とるつもりはないって。
 あのとき言うたこと、覚えとるか?」
「ああ」
「あのあと考えたんや。あのな。俺は自覚のうて言うとったけど、俺は君に対して『強欲』で『貪欲』やて言うたんや。どっちも『欲』が入っとる」
「――ああ」
火村の手に、先刻よりも力が篭った。
「俺を欲しがってもええねんで。おあいこや」
「――窓を閉めてきてもいいか?」
「それはあかん」
私は吹きだした。まったくこの男は!
顔を上げた火村の目に、普段の色が戻っていた。空気もどこか緩んでいる。
「アリス」
近づいて、離れていった火村の精悍な顔を呆然と見つめる。
今されたのはキスだろう。いや、間違いなくキスだった。
火村のキスは知っている。それこそ今夜だとて何度もされた。――けれど。
頬が熱くなる。
「な、なにすんねん」
「おや?作家先生はキスもご存知ないのか?」
「やって、君……」
私は混乱した。
今は、違う。フィールドワークの齎した熱はすでに通りすぎている。火村は欲情など、まるでしてないだろう。目を見ればわかる。火村は落ちついている。
何故、愛しいものを見るように私を見るのだ?
「なんで……」
「理由が必要か?」
口を開きかけた火村を押しとめる。
「言うな。まだ夜や。言うな」
「夜じゃ駄目?混乱してるな。夜だろうが朝だろうが、悪いが俺には同じだ。――アリス」
呆然と、火村を見上げる。
明かりもつけない中、火村の表情がはっきりわかる。その理由はすぐに知れた。
空が白み始めている。
暁が降りくる。
火村の唇が、動いた。
「好きだ」



あかときくたち・了  (2008.2.6 彩)


 

 

 

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