+ Cry for the moon. +


   

 

風が吹いた。
カーテンが大きく膨らんで、集中していた火村の意識を現実へと戻す。
盛夏を過ぎた、乾いて涼しさを含んだ風だ。作家の友人がいたならば夜の秋という言葉を使うだろう。
根をつめていた論文から目をあげて、火村はちゃぶ台の灰皿を持ち、立ち上がる。灰が飛ばされないよう片手で風をさえぎった。そのまま吸殻を流しのコーナーに捨てる。水をかけた。後ろを振り向くとバタバタと音を立てるカーテンの向こうに夜の闇と月が見えた。
網戸に霞む夜の中で、月が、温度のない光を投げかけている。
空から届く光は儚い。
この年季の入った下宿の、古びた蛍光灯にさえ払われてしまうような遠い光だ。火村は黙って蛍光灯のひもを三度引いた。部屋を暗闇に沈めた。カーテンがはためいた。色の褪せた畳に月光が差し込んだ。投げかけられる光は先刻よりも強くなった。
気まぐれは作家の専売特許とは限らない。
膨らんだカーテンの隙間から差し込む光が、火村の足先を白く染める。
煙草で燻され、元の色のわからなくなったカーテンを開いた。軽くたたいて羽虫を払うと、からりと網戸を開けて窓の桟に座る。月光と心地よい風を感じながらしばし論文からの逃避を決め込んだ。
遠く、たかくに昇る月は混じりけなしに白く、人はいつもただ仰ぐことしかできない。
手が届かないほど高みにあるからこそ、なぜか手を伸ばしたくなる。それが無為だとわかっていても。
思わず伸ばした指先、反射する爪の白さが記憶の扉を叩いた。
あれは――いつだったか。
唇を指でたどるごとに古びた記憶がフィルムをはがすように鮮明になった。月の光に彩られた記憶だ。
まだ火村が助教授になる前のことだ。
有栖の作家デビューが決まった後のことだった。





露天風呂は内風呂よりもぬるめだった。源泉は同じだから、風で冷まされているのだろう。並んで肩までつかると、あまり深さのない風呂に自然と空を仰ぐこととなる。後ろ髪が濡れた。空には白い月がぽつんと架かる。
「う〜、極楽や」
「おや、作家センセイの極楽はずいぶんチープなんだな」
「おうよ、まだ印税入ってへんからなあ。いくらやろ」
一瞬、火村は黙り込んだ。何気ない風を取り繕う。
「皮算用はやめた方がいいぜ」
「阿呆。見とれや。今は無理でもそのうちペン一本で稼いだるわ」
有栖はまだ、会社に縛られる身だ。もうしばらくは2足のわらじや、と言っていた。現実を直視する目は、けれど夢に向かってひたむきだ。作家でいつづけなくては意味がないと、粘り強く時を待つ。有栖は作家になるだろう。趣味ではなく、職業として。
それを隣で見ていることは火村に言いようのない焦燥を運ぶ。
彼の紡ぐ話が好きだった。
それだけでなく。
彼の弱音も愚痴も、今までは火村ひとりに齎されていたものだ。けれどこれからはそうもいかない。彼の話を一番初めに読むのは担当編集者になるだろう。これでプライドの高い有栖は、火村以外の人間に弱みを見せることを善しとはしなかったが、その役割もまた、編集者に譲られる。
「君は…」
ぽつんとつぶやかれた言葉に有栖を見る。彼は火村の方を向いていなかった。
「…なんでもあらへん」
そう呟いて首をすくめるようにして口元まで温泉につかる。
夜の中、温泉の湯気が白い靄となって有栖の髪にまつわっていた。風が吹くと払われる。肩先が冷えて、もう少し深く沈む。岩風呂自体が浅いから、空をもっと仰ぐことになる。この露天風呂は、もしかすると庭師が作ったのかもしれない。浸かっているとなんだか鯉になったような気分がするのだ。
もともとは庭に自噴した温泉があって、それで温泉宿を始めたという、ある意味でとても贅沢な宿だった。露天風呂には竹を半分に割った樋で源泉が流れ込む。
透明な湯はとろみを持つ。有栖はそれを掬っている。
手のひらから簡単に湯はこぼれ、手首を滴り肘を伝う。有栖の掌のなかは数滴を残して空になる。そうするとまた、湯を掬った。どれだけ両の手をぴたりと合わせても、湯は隙間からこぼれおちる。有栖は無心な様子で尚、温泉を掬っていた。軽く開く唇は子供のようだ。それでいて眼には憂いがある。
火村は隣で同じように掌で湯を掬ってみた。そしてその認識が間違っていたことに気付く。有栖が救っていたのはお湯などではない。
空に架かる月だ。





空には月が。
そして有栖の掌の中にも白い丸い月がある。ゆがんで揺らめき、いくら掬ってもどうにもならない夜の月が。
火村はちらとそのさまを見やった。
有栖の表情は透明で、無為なことをしているというのにそれを咎める気にもなれない。
有栖もまた、絶望というものの手触りを知っているのだ。となりで月を掬う様子にそれを想う。
タチが悪い、と思う。有栖の虚無は火村のようにわかりやすいそれではないだけに、厄介だ。薄い光彩は、ほんとうには掬うことのできない月だけを見ている。むしょうにいら立った。
「そろそろ上がろうぜ?」
有栖の肩が揺れた。こちらを向いた横顔に、先刻までの虚無はない
「君、相変わらずカラスやなー。俺はもうちょっとおる」
「……そうか。先にビールやってるからな」
「なんやと!」
商売っ気のないひなびた宿だった。当然入っていると思われたビールは備え付けの冷蔵庫になく、有栖を歯ぎしりさせた。売店で地ビール3種を買い、冷やしている。
「ま、待て。俺も上がる」
先に上がった火村の背後で足を滑らせたのか「うわ」と慌てた声がした。
いつもの彼のものだ。安堵して遠慮なく笑った。
内風呂へのガラス戸に手をかける。ガラスに白い月が映りこんで心を覗きこまれたようにどきりとした。





窓の桟にかけたまま、コップを持ち上げ水を飲んだ。すっかりぬるくなっている。
飲んだのは水ではない。コップの中に映り込んだ月が揺れる。
軽く揺らした。月がゆがむ。呑みほした。目線を上げれば月は変わりなく、天空にある。火村が飲んでいるのはただの水だ、客観的に見れば。
有栖が掬っていた月のことを考える。
あのとき、そこにあってもどうにもならないものを彼もまた抱えていた。
火村はそのとき、少しだけ推理をしたのだ。有栖が欲しがるのは、欲しがってどうにもならないものはなんだろうと。彼はデビューを決めていた。火村が思いつけるのは、そのほかならばひとつだけだった。あまりに安直な発想に、思考の糸を断ち切った。

手の中のコップは空だ。
月は高く昇って、火村の位置から見えなくなった。
やれやれと腰を上げ、網戸とカーテンを閉めて論文へと立ち返る。
あれから年月が過ぎて、火村は助教授となり、有栖は専業作家となった。今頃彼も、執筆に集中しているだろう。明日あたり、締切が終わったら、温泉に誘ってみようかと思いつく。そうした感覚は有栖と近く、二つ返事が返ることを疑わない。


今ならば「月は掬えたか」と訊ける気がするのだ。
火村は、月が欲しいと心の中で駄々をこねるのはとっくにやめた。

手を伸ばして掴み取り、普段は離れていても傍にいる。

今は目に映らない月のように。

「月を温泉に誘うってのも可笑しいか」
照れて顎を掻くと、当面の仕事をこなすために明かりをつけ、論文を再び読み始めた。

了   (2009.8.21UP 彩)

 

 

素材提供: Pearl Box