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 近いうちにギリシャの酒でも酌み交わしましょう――

 店内に人はまばらだった。テーブル席は半分も埋まっていない。港近くにある店だ。元々は船員バーだったのだろう、異国情緒に溢れている。各国の言葉が飛び交っていた往時を偲ばせた。静かに飲む客ばかりで、けれど話をするにも不思議と憚りがない。カウンターでは女主人が何にも動じない謎めいた微笑みを浮かべている。飾られる器物は異国の浮き輪も、パイプを手にしたマドロス像も海に関係するものばかりだった。時間という波に洗われて、思い出は飴色に輝いていた。
 波の音が聞こえるようだ。
 ざわめきにまぎれてクレオパトラの夢がかかっている。テンポの速い技巧的なピアノは迷信に突き動かされた女の熱気を思い起こさせた。
 女一人に男二人。その構図だけを見れば、2年前と変わらない。事件の謎解きをポツポツと話す。それもまた。海に沈み、取り残されたようなこのバーには似合っている。
「ウゾーはストレートやと透明なんですよ」
 人の善いアリスは女刑事に見せるためにストレートのウゾーを頼む。女の前の水割りと見比べ、「な?」と屈託なく笑う。ギリシャの酒を、との言葉どおり、3つのグラスからはそれぞれアニスや、ウイキョウが香っている。アリスは、その見かけに反し、存外に酒に強い。けれど彼女はそれを知らない。
「きっつー」と子供のように顔を顰める様子からはとてもそうとは見えないだろう。
 火村は携帯を手に席を立った。
「呼び出しだ」
 溜息をついてみせる。2分ほど置いていちど席に戻り、ジャケットから手帳とペンを引きぬいた。再び中座することを告げる。そしてそれで素地はできた。
 火村は二人から離れ、けれど足音を殺して声の聞こえるところまで戻った。女主人がチラと火村に目を留めた。唇の前で人差し指を立てると目を眇める。そのまま視線を逸らして細いタバコをひらりと咥えた。火をつけた先から細い煙がたなびいた。

 彼女は刑事だ。火村に興味を持っている。この機会を逃がしはしないだろう。
 案の定、事件の話題は火村の為人へと移り変わる。さりげない話題運びを刑事のアルテとは思えなかった。だから女は、と唇を歪める。
「先生には何か犯罪に絡む強迫観念があって、それに起因しているのかな、と想像してしまいました」
 女刑事がどんな表情をしているのかはここからは見えない。
 アリスは応えず黙り込んだ。表情は虚を突かれたようなもので、覗き見た火村は知らず微笑した。考えたこともなかったのだろう、彼は。その気になれば分析できるだけの知識を蓄えているくせに、絶対にそんなことはしないのだ。酔えば口が軽くなるだろうという刑事の経験すら軽やかに裏切る。アリスは火村について何一つ話しはしなかった。
 不自然でないだけの間を措いて、賢しらな女刑事と愛すべき推理作家の元へと戻った。ぎこちなさを纏った空気は刑事によって払拭された。火村は注意深く彼女の振った話題に乗る。アリスに目を止めて、おや?という表情を作ることも忘れなかった。自分自身の思考に沈むアリスのためではない。猟犬を自認する、女刑事のためである。席を立ったあと、その場の話題がどう移ったか知らないはずの火村だ。戻った後にさりげなく場の空気を読もうとするのは人間として当然の行為だった。それを意識して行う。
 途切れがちのピアノに続いて、どこか恨めしげな、むせび泣く泣き女めいたアルトサックスが流れはじめた。
 Left aloneだ。ふと見れば、カウンターに片肘を突いた女主人の唇がちいさく動いている。喪失を知るものにしか歌いえないし、歌わない曲だ。
 もったいなかったな、と意識の片隅で思う。居心地の良い店なのだ。一人でも時にふらりと立ち寄りたいと思うほどには。こんな風に使いたくはなかった。けれどだからこそ効果的だろうとも思う。
 お開きになるまで、浮かべる表情も、言葉も、視線すら、演技を続けた。常のアリスならば気づくだろうが、と火村は考える。精一杯普段を装うアリスが痛々しい。
 曲はleft aloneから哀愁を帯びたファドに変わっている。人生の哀切を女が朗々と歌い上げている。
 ファドは運命を意味するという。運命も宿命も火村は知らない。信じてもいない。ただ――一つだけ心に浮かぶ情景がある。ゴールデンウィーク明けの階段教室、隣りに座った青年が原稿用紙に物語を綴っていた――。
 運命などではない。単なる偶然だと思う。その後、親しくなったのは、彼も自分もそうしたいと思ったからだ。大学時代を過ぎた後は努力もした。そしてお互い、夢をかなえた後もこうして傍にいる。
 だから――これも運命だとは言わない。火村はただ、そうしなければ手に入れられない物を掴むために動くだけだ。
 たとえ相手を傷つけるのだとしても。

 タオルで髪を拭きながらリビングへ向かうとソファでアリスが片膝を抱えていた。眉尻を下げて、どこか途方に暮れた様子だ。こうしていると彼はとても30を超えているように見えない。彼自身が書く小説の中の登場人物たちがもつ、大学時代、あの時期の独特なナイーブさを今もその身のなかに留める。バーの雰囲気を引き摺ったのか珍しくジャズがかかっていた。夜も、昼もと情熱的な恋を歌う。独り、残される唄よりもずっといい。
 火村はキッチンへ向かい、冷蔵庫から買い置きのビールを取り出した。ビール以外の、ツマミの余地もない貧相な中身に浮かんだ説教を溜息で収める。
「呑むだろ?」

 もう遅いから泊めてくれと言ったのは火村だ。いつもならば火村が頼むよりも先にアリスが誘う。屈託なく。泊まってゆけと。
 仕事がないはずの彼は、けれど僅か、逡巡した。火村を盗み見た視線は悩ましい。地下鉄の駅で、まだ女刑事は傍にいた。少々早まったかと思う。谷町四丁目まではこの女と付き合わねばならぬのだ。さりげなく体を入れ、彼女からその表情を隠す。
「そやな……もう遅いし。泊まってき」
 躊躇いは、アリスの途惑いの深さと言えた。そして彼は今もまだ、火村の前で素の表情を晒している。夢から醒めたように瞬いた。
「あがったんか……ん、呑むわ」
 プシュ、とプルトップを上げる音がジャズの静けさのなかに響き渡る。
 無防備にのけぞる咽喉に視線が吸い寄せられた。
 ――この、ずっと隣りにいた親友に、欲望混じりの恋情を抱いていると気づいたのはいつだっただろう。火村にとって感情など、理性で押さえつけるべきものだった。それが叶わぬほどの想い。
 自分のことは知っている。そしてアリスのことも。
 彼も、自分に対してそれに近い想いを眠らせていることには気がついた。だが火村が気づいたその想いにアリス自身は気づいていない。彼は存外、モラリストだ。可能性など端から排除しているのだろう。
 巻き込むことに躊躇いがないではない。だからこんな回りくどい方法を採ってしまう。
 ――【火村】について考えることは、彼自身にとっての火村の存在を考えることに繋がるだろう。踏み込むことを彼が善しとするかどうかは、わからないけれど。
 彼の足もとの床に座りこむ。
「水、滴っとるやん。ちゃんと拭き」
 優しい指がタオルを取り上げ、火村の髪を拭う。
「世話好き作家め」とからかいながら、火村は彼の缶ビールを奪って口をつける。
 見上げたアリスは笑っている。火村が、間接キスだなどと考えていることなど彼には思いもしないのだ。
 運命など信じない。猿の手など、尚更に。
 ――けれど。
 アリスの手を、掴む。白々としたリビングの蛍光灯にかざした。
 男にしては細い手だった。
 けれど周囲の誰もが声には出さず無理だと思っていた夢を、けして諦めずに掴み取った手だ。この手にならば願ってもよい気がした。
「火村?」
「なんでもねえよ」
『おまえが欲しい』と。
 声には出さず、そう願う。
 気まぐれを装って、すぐに解放した。アリスはまだ怪訝そうだ。
 リビングの明かりがやけに眩しい。
 火村は俯き、唇を歪めた。

了 (08.8.18 aya)

 


素材提供:Salon de Ruby