+ 瑕と傷痕 + Her


  top 

 


あたりに注意を払って部屋の鍵を取り出した。それまでに二重ロックの玄関を通りすぎているけれど、警備員のいないアパートではそれは身についた習性に近い。鍵は三つ。それでもまだ、タイムズスクエアに地下鉄一本で出られるチェルシーにしては少ない方だ。ドアを開くとテンペラの匂いがした。
「マレーネ!早かったのね」
「あなたもね。――郵便、来てたわよ」
「Thanks」
いつもエネルギッシュな同居人の言葉に私はダイニングのテーブルを見た。そこには航空便が置かれている。中身は本だろう。アマゾンで取り寄せた、有栖川有栖の新刊だ。こうして世界中に、クリック一つで日本の本が取り寄せられるようになった。お金さえ、厭わなければ。そして私にとって彼の本にはその価値がある。
カーキのTシャツに黄色の絵の具がついたままのマレーネが隣りに立った。ふわっと絵の具の匂いが立ち昇る。アトリエから直接ここに来たのだろう。彼女は、彼女らしくもなく、しばらく躊躇ったあとで口を開く。
「レイモンドの個展、どうだった?」
「良かったわ」
「――買いつけたの?」
「ええ。――気になるなら自分で見に行くのね」
探るような言葉に苦笑する。
焼けた肌に黒い巻き毛、濡れたような大きな瞳。
エトランゼの匂いの濃いマレーネはフランス領ポリネシアから留学してきた画学生だ。
その上に『野心的な』という形容詞をつけてもいいだろう。私とのルームシェアをOKしたのも私が絵に携わっている、そのことが関係している。
彼女の絵は、私から見ても悪いわけではない。ただ、屈折と鬱屈が透けて見える。それを良い方に消化できれば伸びるだろう。誰もが言うことだから私は言わない。
彼女はまだ運がいいと言われている。他の、十把一からげの画学生たちに比べれば。但しそれが彼女の鬱屈の原因でもある。
そう――彼女がいずれ売り出される時のフレーズはもうすでに決まっている。
『ゴーギャンの孫娘』
冷徹な情熱の画家・ゴーギャンが楽園タヒチで手をつけた女たちの一人から生まれたのが彼女の母親だ。
そしてそんな女ならタヒチには掃いて捨てるほどにいる。
恋人とすら、呼ばれない女たち。
死ぬまでを暮らしたというのにゴーギャンの絵は、タヒチに一枚も残されていない。それがすべてを示している。
彼女は今、祖父の影に囚われている。繋がれてはいないそこから、抜け出すことができるかどうかは彼女次第。

重さのある封筒を持って自室に篭る。ハサミで開いて中身を取り出した。ずいぶんと厚い。
壁にぴったりつけられたベッドに座って背中にビーズクッションを置く。左手に、肌身離さず巻いた腕時計を外した。
手首には薄っすらと跡が残る。久々にちゃんと目にしたそれをじっくりと検分する。もう、こうして気にしなければ気づかないだろう傷痕。徐々に消えてきているそれは、それでもまだ、痕といえるほどには残る。
この傷痕の存在は、一緒に住むマレーネでさえ知らない。
窓の外に目をやればチェルシーの秋は深まりつつある。見下ろせばプラタナスの並木が色づいて黄金色の葉を散らしていた。物悲しいほど空は高い。何年も経って、あのテロの気配はこうして眺める窓からは見つからない。
あの秋、灰塵がNYの空を陰鬱に染めた黒い秋。日照時間の影響だろうか、木々は早々と、青いままの葉を散らせた。今の私は『あたりまえの日常』が、儚く――脆いものだと歯噛みするほど知っている。
再び本に目をやった。真新しい本をめくっていくと情感溢れた文章が、失った時代を思い起こさせた。

『生きていてもつまらないから』

そう思ったことは事実で、愚かだったとも思えない。
ただ、新作が出るたび読みつづける『彼』の文章が、疵の匂いを色濃く残して罪悪感を胸に運ぶ。酔ったような陶酔もある。自意識過剰だとは思うけれど。
一章を読んで、溜息をつく。あとは明日にしなければと思っても、続きの誘惑から逃れられそうにない。しおりを挟んで本を閉じた。紅茶を入れよう。
腕時計を嵌めなおす。ちらと、隣りに置いた本に目をやった。
「ねえ、恋人でもできた?」
ひそかな囁きは本を書いている相手に向かった。
疵は変わらずそこにある。
何が変わったわけではないけれど――ただ、伝わってくる痛みは感傷めいて、ひどくうつくしく思われた。『懐かしい痛み』という言葉がぴったりだろう。内容が繊細であやういのに不思議なほどの安定感が文章からは立ちのぼる。今までになかったことで、それは心を預ける場所があるからのように思われた。
ほっとして、でも少し悔しい複雑な気分だ。

リビングに出ると玄関に、ミリタリーコートを羽織ったマレーネを見つけた。静かに支度しただろう彼女は私を見て少しばかり気まずそうな表情をした。
「レイモンドの個展に行ってくる」
「そう。――気をつけてね」
人は皆、自分を繋ぐくびきから足掻きつづける。
逃れられないと知っても何度も――何度でも。
マレーネが開いたドア、その向こうには切り取られた青空が見えた。
私は紅茶を入れるために、ヤカンを手に取り水を汲んだ。

了(2008.3.20 彩)

 


素材提供:Salon de Ruby