+ La vie en rose +


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 火村が来るとあらかじめ知っているときには出来るだけ仕事のキリをつけておく。
 友人だった時分ならばありえない扱いだが、世に言う蜜月なるものを私はこれで楽しんでいる。そのうちまた、ぞろ、締めきりに追われてボロボロの状態を見せつけるのだ。今ぐらいは良いだろう。
 だから読み始めたのは推理小説ではない。推理小説を読んでいては、火村の機嫌は下降線の一途を辿る。仕方あるまい。気もそぞろになるからだ。友人としては寛容だが、恋人としては狭量な火村に、はじめはひどく面食らったものだが嫉妬されたり独占欲を示されるのは意外なことに心地よい。相手が火村だから、というのは認めよう。付き合っていた女性に独占欲を示されて駄目になった過去を思えば、火村の独占欲は不思議なほど私を息苦しくしない。執着の示し方は強烈なくせに、彼はいつもどこかで一歩を退いている。もどかしいような、安心するような。正しくはあっても、恋愛とはそういうものだろうかとはて、首を傾げることはある。友人時代から火村のことが、この上もなく大切だ、ということだけが多分まぎれもない事実だ。私がこの先、もしも筆を折ることがあったならば、原因は火村でしかありえない。だが、火村はそれをさせないだろうという確信がある。
 火村は私を尊重している。私が彼の、未だ知らされていない過去ごと、火村という人間を受け入れるのと同じように。

 ぴんぽーん。

 いつものごとく、チャイムがなった。
「はいはーい」
 読みかけの本をテーブルにおいて玄関に向かった。
「……よう」
 ぶっきらぼうな挨拶に、これ見よがしににっこり笑う。
「早かったやん」
「ああ」
 火村が言葉少ないのは、まだこの状況に慣れないからだ。可愛いではないか。
 あばたも笑窪という言葉を実感しつつ居間に招く。
 火村の両手にはスーパーの袋。まったくよく出来た恋人だ。白菜が覗くところを見ると今夜は鍋らしい。
「仕事は大丈夫なのか?」
 本を読んでいた痕跡に、火村はどうも不審そうだ。そりゃそうだろう。最近、彼の前では仕事をしていない私である。
「君が来るのに?」
「……片桐さんを泣かしてなけりゃ、構わないんだが」
「うれし泣きしてるかもしれへんで?最近原稿上げるの早いし」
 火村がちょっと退いた気配がする。ううむ、しまった。やりすぎたか。
「――アリス。おまえ、面白がっているだろう」
 相変らず鋭い指摘だ。その通り、とは言ってやらない。『にっこり』を顔に貼りつかせる。
「まあまあ。君が緊張しとるみたいやから、リラックスさせたろうという恋人心やないか」
「俺は普通がいい」
 思わずぼやいた火村に、このあたりで大丈夫だろうと『にっこり』の仮面は取り去った。くつくつ笑う。

 ――ホンマに恋人心やねんで?君が、えらく緊張しとるみたいやから。

 言葉にしなくても伝わっているだろうと思えるのが、長く隣りにいた信頼というものである。

「何読んでたんだ?」
 テーブルに伏せた本を見て、薄い新書の大きさに火村はちょいと顎を摘んだ。
 推理小説にしては薄い。大型書店のカバーがかけられている。
 資料のつもりで手に取った、法医学の読み物だった。なんの気無しに選んだそれだが、なかなかどうして興味深い。
 キャッチボールのつもりで捻った答えを投げかける。
「世界最古の殺人事件」
「――アイスマンか」
「君はほんまになんでもよう知っとるね」
 呆れ半分で言った。
 後の半分は感心したのか……自分でもよくわからない。

 アイスマン殺人事件――これは後世、そう呼ばれることとなる――は、1991年に発覚した。オーストリアのチロリアンアルプスをトレッキングしていた夫妻が氷河で氷漬けになった死体を発見したのだ。当初は10年ほど前に遭難した人間かと思われたが、検死の結果、とんでもないことが判明した。なんと、5300年前の死体だったのである。
 おまけに――ここから先が、私の興味を惹く所以だが――なんと彼・アイスマンは矢を射られて殺されていたのだ。世界最古の殺人事件と呼ばれる所以である。
 ミイラ化した遺体は衣服まで原型を残しており、その当時の人類の歩みをつぶさに知ることが出来る。発見者はオーストリア人であり、検死はオーストリアで行われたが、正確な発見場所が国境を僅かにイタリア側に逸れていた。イタリア・オーストリア両国がこの死体の所有権を巡って争いを起こしたことは想像に難くない。王族でもない一般市民の死体を巡って国家が血眼になって所有権を争ったというのもなかなかシュールだ。発見場所の関係で最終的な所有権はイタリアに移った。
 ――と、掻い摘めばこういう話である。

「拗ねるなよ」
 あやす口調にムッとする。
「拗ねてへんわ。呆れとるだけ。……よう知っとったな」
「法医学者には垂涎の的だろ?イタリアとオーストリアが所有権めぐって争ったぐらいだし」
 コイツが口にすると国名まで原語調なのは何故だろう。嫌味だ。
「なんや興味なさそうやな。犯罪学者の興味は惹かへんか?」
「興味ないわけじゃねえけどな。意味がないからな」
「意味がない?」
 私はぽかんとして火村をまじまじと見てしまった。
 犯罪は憎まない。犯罪者をこそ憎むと苛烈な道を歩む火村のセリフとは思えなかった。
「アイスマンは――便宜上、こう呼ぶぞ――矢を射られて殺された。だがこれが犯罪かどうかははっきりしない」
「おかしなこと言うんやな。矢が、どっかから勝手に飛んできたとでも?人の手でアイスマンは殺された。これは間違いないやろ?鹿や熊と間違えたいうんはありえへん。100mぐらいの距離から射られとる」
「ああ、そうじゃねえんだよ」
 火村は若白髪混じりの髪をかき乱す。これ以上ぼさぼさにしてどうしようというのか。
「アイスマンがいた社会にとっての犯罪の定義がはっきりしない。なにせ5000年以上前だ。例えば戦争中だったとしたら?それはもう、犯罪とは呼べない。そこまでいっていなくてもアイスマンは例えばスパイだったのかもしれない。そうなりゃがらりと様相は変わる」
 成る程。裏切り者には死を、か。
 ところで段々、恋人らしい会話から離れていっているのは何故だろう。
 火村は逆に生き生きしている。この野郎。この私が仕事も片づけて、ちゃんと恋人モードで待っていてやった努力を返せ。
「……やけどやっぱり、殺人事件やったかもしれんやろ?」
「そうだとしても時効だ。それに殺した奴もまた殺されてる」
「――誰に?」
 火村は唇を歪める。面白そうに私を見た。
「至上最大の殺人者、偉大なる殺戮者に、さ」
 何を喩えたものか解って、私はつかの間黙り込んだ。
 100年後には我々のどちらもこの世にいない。
 至上最大の殺戮者。人類は押しなべて彼――『時』というモノに殺される。たまさかその手を逃れた者だけが私や火村の興味を引くのだ。
「――そやな」
 納得は出来なかった。私の性格を知り尽くしている火村は軽く笑う。
「納得できないって顔だな」
 私は答えなかった。
 言いくるめられた感がある。火村は本を手に取った。ソファの向こうにポイと放る。
「何するんや」
「手の届かない殺人事件よりも俺をかまえ」
 私は呆れ、ちょっと笑った。
「遅いで」
「すまん」
 火村も笑っている。
 難儀な男だ。そしてその難儀な男に惚れた私も物好きなのだろう。
 火村の手が伸びてきたのを目の端に捕らえて、私はそっと目を閉じた。
 触れる唇。少しかさついているのが同性であることを実感させる。見た目は薄いのに、くちづけると酷く肉感的だ。ひらくと煙草の苦味が走る。
 目眩がするようだ。平行感覚が崩れる。
 殺人事件もフィールドワークも原稿も。
 すべて目の届かないところにある。
 そしてお互いに、溺れる。

 私たちの関係が、罪となる世の中だってあった。それが死刑に値する時代も、また。
 けれどいつかは私たちも必ず殺されるのだと考えれば、罪悪感は目減りした。
 私も、君も。どうせ殺されるなら、時の優しい手を望む。
 私が無理なら、せめて君だけでも、と思う。

 なんや『恋愛』ゆうよりも、『病める時も健やかなる時も』っちゅう感じ?

 軽く笑うと、真面目にやれというように火村の手が慌しくシャツをひき抜く。薄く目を開くと火村の表情は何かにひたむきに突き進むそれで、その意識の向かう先が私だということに浮き立つような、困ったような感情が湧きあがる。
「ひむら」
 呼ぶと、再びくちづけが落ちる。思考は急速に薄れていく。

 5000年も経てば、私たちのことなど誰も知らない。

 奇妙な安堵を覚えて、行為に没頭しはじめた。

了(2008.3.3 彩)

 

 

 

素材提供:Joli様