恋文 


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大阪府警から英都大学犯罪社会学研究室に電話が入ったのは、釜の底と呼ばれる京都の夏が終わり、学生たちが残暑厳しい大学にゼイゼイ言いながら戻ってきたころだった。
今回はフィールドワークではない。もっと地味に、捜査資料を見せてくれるという。勿論ながら持ち出し禁止、こちらが出向くしかない。コピーは不可、その場で書き写す事すら許されないことを先に告げられる。裏返せばそれだけ重大な事件の貴重な資料だということだ。火村は船曳に礼を告げた。見せてもらえるだけで十分だ。
電話の向こうで船曳は笑った。
「まあ先生の記憶力やったら、後でなんぼでも、まんま書けますやろ」
人間コピー機の扱いを受けた火村だったが、それはおおよそ間違ってはいない。一時間前の会話であれば、重要ではないことでもほとんど全て思い出せることは実証済みだった。
すぐさまベンツを駆って府警に向かいたいところだったが、生憎『休講』という呪文を使いすぎては事務局に睨まれる。三コマ目が終わるまではおとなしく過ごした。
府警についたのは四時半を過ぎており、見知った面々と挨拶を交わす。どうやら大阪の街は平和なようで、その点かなり気が楽だ。軽く近況を報告しあい、それではと鮫山付きで資料を渡された。火村は軽く眉を上げる。警部補がつくとはどうやらよほどの内容のようだ。火村よりもよほど学者然とした鮫山は飄々としている。
「私もちょうどしたいことがありますので」
そんな言葉で火村の負担を軽くした。
一室を借りて、資料を読みこむ。筆記具の持ち込みはしなかった。すべてを記憶に叩きこむ。
そんな火村の目の前ではネクタイを緩めた――とはいえ、これは火村の比ではない。ごく軽く、だ――鮫山がためこんだ書類をせっせと片づけていた。警察機構も役所の一種だということを示すように書類の量はハンパではない。右に積んだその山が左へと移っていく。鮫山に同情した。この学者然とした刑事が案外武闘派であることを火村は知っている。しかし器用ではあるのだろう。苦にした様子はなかった。
部屋は静かだった。スチール棚の書類を守るためだろう、よく空調が効いている。ブラインドは下ろされている。その隙間から盛夏を過ぎた太陽が床をちらちらとまだらに染めた。なんとなく図書館の書庫を思い出すなと火村は思った。部屋の奥に並んだ、なんの変哲もないスチール棚が夥しい量の犯罪の記録を抱えこんでいる。一件一件をめくれば血なまぐさい、悲鳴と慟哭に満ちた事件であろうに、こうして隙間なく棚に並んでいる様は、かえって凄惨さを乾燥させ、希薄にする。
ここにあるのは単なる資料だ。けれど糸口にはなりうる。
そんなことを考えながら火村は資料を渉猟した。紙をめくる音と書きつける音だけが一室を満たす。鮫山の前の書類の山が数枚になったのを見計らって「終わりました」と声をかけた。
「もう宜しいですか?」
「はい、ありがとうございました」
貴重な資料を読めるように計らってくれた厚意に頭が下がる。鮫山は眼鏡の奥の怜悧な眼差しを僅か、和らげた。
「私こそ礼を言うべきかもしれません。溜まった書類がすっかり片付きましたから。先生の前だと非常に捗ります。――次は、森下を座らせましょう」
「そう言っていただければ有り難い。――では、次回は」
スパルタな愛のセリフに火村は笑って返した。
現場での熱意だけでは優秀な刑事は育たない。上からの横槍に屈しないために、時にこうした愚にもつかぬ書類が楯となることは象牙の塔に住む火村にも覚えのあることだ。
閲覧許可願に退出時間とサインを記入して資料を鮫山に返す。森下と違ってこのまま別れても大丈夫だろう。すでに帰ったという船曳に改めて謝辞を言付ける。それに返すように廊下での別れ際、鮫山は笑って口にした。
「有栖川さんに宜しく」と。
すっかり行動を読まれているなと火村は苦笑を禁じえない。頬を撫ぜた。
資料の内容は出来ればすぐにも文章に起こすつもりであるが、そこらの喫茶店でそんなことができるはずもない。となれば当然向かう先は『カフェ・有栖川』である。
アリスとは先月、彼の同級生が殺された事件で会って以来、すっかりお見限りとなっていた。それというのも作家先生は「しばらく締め切りが続くで!」と宣言し、その宣言どおり付き合いが極端に悪化したのだ。
資料を起こした後、アリスの余裕がありそうならば外へ食べに行っても良いし、もし修羅場の最中であったなら、胃に優しいものでも作ってやろう。
待ち受けるものも知らず助教授は、一発でかかったベンツのエンジンに口笛を吹き、夕焼けの中を夕陽丘へと向かった。

アリスの青い鳥は駐車場に止まったままだった。にも関わらず、インターホンを鳴らしても出ない。徒歩で外出という選択肢もありえたが、これは、十中八九。
「昼夜逆転作家め」
寝てやがるな。
ちいさく悪態をついてキーホルダーからアリスのマンションの鍵を選ぶ。開くと居間の明かりが見える。廊下はキンと冷えこんでいた。火村の眉が跳ねあがる。
靴を脱ぎ散らかして駆けあがるとアリスはリビングのテーブルに突っ伏している。
寒い。
外はまだ、残暑でかげろうが立つほどだというのに。
「おい!アリス!」
肩を揺さぶると、カランと音がして右手から赤ペンが落ちた。
「ん〜」
呻き声でも返ったことにほっとして、更に舌打ちする。アリスの顔色は真っ白だ。前回会ったときは少々夏ばて気味だったようだが今は完全にやつれている。
青白い目蓋が痙攣し、痩せたせいで長く見える睫毛がぱた、と震えた。うっすら開いた紅茶色の目が火村を見とめ、笑みを作る。
「ひむらや〜」
脱力した。
「頼むよ、センセイ」
がりがりと髪を掻きまわす。ぼさぼさになろうと知ったことか。
アリスはまた、ローテーブルに突っ伏して、すう、と眠ってしまった。
「……校正中か」
ローテーブルにはプリントアウトした原稿が散らばっている。この家で印刷したものだ。赤ペンを持っていたという事実を重ねるに、最終チェックの最中で力尽きたのだろう。
編集者も来ていないしカンヅメにもなっていない。ということは、そんなに切羽詰まってはいないのだろう。少しぐらい眠らせても問題はあるまい。
作家でもない自分が作家の修羅場のレヴェルを把握できる現実に溜息しか出ない。
「ほら起きろ、アリス。歩け。こら」
「む〜」
猫の方がマシだ。
嫌がってテーブルに懐くアリスに本気でゲンコツをくれてやるかと思ったそのときだった。
火村は息を飲んだ。アリスの肘下からその原稿を抜き取る。アリスの肘が紙ごと滑って一瞬ひやりとする。アリスは眠ったままだ。起きる様子はない。碌に眠っていないのだろう。示すように目の下の隈は濃い。
それを横目で眺めながら火村は原稿用紙に目を走らせた。
それは、献辞だった。

――NYの空の下にいる君へ――

朱で書かれ、更にその上からやはり朱の二重線が引かれている。
二重線は、微かに震えていた。
「誰だ?こいつは――」
火村の声もまた、揺れた。
ちらりと十年来の親友を見やる目に熱く冷たい色が凝った。

寝室のドアを開けるとそちらは真っ当な気温だった。居間の冷気と交じり合って丁度良い温度をつくる。冷えきったアリスの身体を抱き上げた。脱力しきった身体は、普通ならば重いはずだが苦にもならない。体重は確実に落ちているだろう。ベッドに転がし、タオルケットを掛けてやる。身体を丸めたアリスは病人というより幼子めいた。もぞもぞとタオルケットを掴んだ指先が覗く。寒くはあったのだろう、口元まで引き上げている。無造作に伸びた薄い色の髪がシーツに散る。眠るアリスはどこもかしこも無防備に過ぎた。相対する人間に嗜虐心を起こさせる。
見下ろす火村の瞳もまた闇の色を帯びた。
つい、と伸ばした手が触れる前に居間で電話がなった。舌打ちしたが、心の中にあったのは真逆の安堵だ。きびすを返して足早に居間へ行き、受話器を取り上げる。
「はい」
「有栖川先生のお宅ですか?」
戸惑った男の声が聞こえた。聞き覚えがある。脳内データベースをサーチするより早く答えは知れた。締め切り近い作家の家に電話してくる人種はおのずと限られる。
「片桐ですが、――有栖川先生?」
「ああ、……お久しぶりです。火村です。有栖川は今、寝ています。必要があるなら起こしますが」
「いえ、それなら結構です。原稿データは受け取ったとお伝えください」
「そうですか」
火村はすっと唇に触れた。最終チェックが終わって片桐にデータを送った後、打ち出して再びチェックしていたのか。あるいは『あれ』は、他社の原稿なのか。カレンダーに目を走らせれば、珀友社の原稿はあさってが締め切りだったようだ。珀の文字の隣りに赤で済と丸が打ってある。
遅筆作家には珍しい。
そう、とても珍しいことだ。火村は思考に沈んだ。
電話の向こうで片桐がおずおずと尋ねた。
「先生は……あ、有栖川先生ですけど、大丈夫ですか?」
唇を辿っていた火村の指が止まる。慎重に答えた。
「窶れています。酷く」
臨床犯罪学者は端的な言葉で作家の現状を表した。
「いつもと様子が違います。心当たりはありませんか?」
受話器の向こうが暫し沈黙した。片桐もまた、慎重に返事を考えている気配がする。言葉はゆっくりと紡ぎだされた。
「有栖川先生は、原稿をデータでくださったあと、いつも打ち出しをして、ご自分でもう一度最終チェックをなさっていると思うのですが」
片桐は一旦言葉を切った。
「書斎ではなく、違う部屋で作業をしていると以前、おっしゃったことがあります。場所を変えてもう一度読む、と」
「――ここにあります」
受話器は肩に挟んで火村はテーブルに散らばったままの原稿を見やった。献辞を書いた一枚が、どうしても目に入る。ポケットから煙草を取り出した。会話中であることに思い至ってまたポケットにしまった。どうかしている。
「お読みになりましたか?」
「いえ」
「読んでください」
強い口調で有栖川有栖の担当編集者は言った。読めば判る、と。
電話を切り、火村は散らばった原稿をノンブル順に集めた。その合間に飛び込んでくる言葉の断片たちが火村の心を騒がせた。
タイトルは「波の花」。
北陸でおこる自然現象だ。一枚目をめくる。思ったとおり話は冬の日本海から始まった。アリスのことだ、冒頭とタイトルに組み込んだということは、おそらくどんでん返しが待っている。
煙草に火をつけ、凍てつく情景を読み進めながら、今更ながらこのリビングが冷やされていた理由の一端に思い至る。思考を組み立てながら一定のスピードで原稿用紙をめくりつづけた。80枚ほどのそれを、一時間とかけずに読む。最後は没頭したため、読み終わった時には溜息が漏れた。力が入っていたのか肩がこっている。片桐の云わんとしたことを理解した。灰皿にいつのまにか積みあがっていた吸殻を捨て、改めてキャメルに火を付ける。深く吸って気分を収めた。収めようと努力した。

それはまったく有栖川有栖の物語だった。優しく情感溢れるくせにロジックが全てを支配する。
それだけではない。
なにかが、あるいは全てが破綻し、それでもそれをものともしない圧倒的な熱量があった。力加減のわからなかった処女作を思い起こさせる。
不条理に人が死んでゆく。
それを論理が断罪する。
溢れる熱気とどうにもならない虚無感が根底を流れている。それでいて一歩離れた冷静な視線と確かな文章力が、間違えば破綻に繋がりかねない話を下支えしていた。それが一種、刀を青眼でかまえたような緊迫感をかもしている。文章は確かに今のアリスだが、内容はそうではない。若いアリスがほの見える。
若い――いや、むしろ幼い。
火村は階段教室で初めて読んだアリスの小説を思い起こした。おそらくこの話はそれよりも更に若いころに作った話だ。火村と出会うよりも前というなら、あるいは高校生か。
唇をすっと辿る。ピースはある。
彼は『あの事件』で高校の同級生と、再会した。
NYにいるという『君』の消息は、おそらくそこで齎されたのだ。
火村は寝室の扉を見やった。その向こうではアリスが健やかに眠っているはずだった。去来した感情は黒々としていた。押しつぶされそうになる。
彼は犯罪社会学を生業としている。その研究手法は特殊で、実際の犯罪現場をフィールドとする。
だから知っていた。自分を捕らえた感情がなんであるのか。
犯行現場で加害者が被害者に向けた殺意、その源となりうる圧倒的な感情。
愛情や憐憫、躊躇いや良識をなぎ払って、ときに殺意へと収束する。
その感情の名を嫉妬という。

「ひむら……?」
「ああ、起きたか?」
なんでもない声を内側からするりと取り出した。自分は案外役者だと自嘲する。
ベッドサイドにダイニングから椅子を持ってきて掛けたまま、アリスの寝顔を見て何を考えていたか。
作家の想像力を持ってしても予測などできまい。
「君――なんでここにおるんや?」
「府警の帰りだ」
そう口に出してから、火村は『カフェ・有栖川』に寄った当初の目的を思い出した。自分の記憶の内側を探る。とりあえずは大丈夫だった。そして今、目の前にいる相手のほうが資料よりも重要なのだった。
アリスは自分の右手を持ち上げて、不思議そうな顔をする。ペンを握ったまま眠ったせいで感覚が残っていたのだろう。握って開く動作をするうちに気づいたらしく、そろりと視線を火村によこした。紅茶色の目は奇妙に冷静だった。
「――読んだんか?」
何を指したかはすぐに理解した。
「有栖川大先生のラヴレターなら、読んだ」
アリスは絶句する。
「ラヴレターて君……」
「違うのか?」
「ラヴレター言うには血なまぐさすぎるやろ。――でもそやな。ある意味、そうなんかもしれへんな」
否定をしない。やはりあれはアリスの過去の想い人へと向けた話なのだ。
「献辞はつけないのか?」
注意深く感情を殺ぎ落とした声を出す。それが逆にアリスに不審を与えたらしい。相変らずベッドに転がったまま首を伸ばして火村を見上げ……プッと吹きだした。
「君……気づいてへんやろ?なんちゅう顔、しとるんや」
思わず逃げ出したくなった。額に手をやる。アリスを睨みつけたが、犯罪者ですら竦む火村の眼光を平気で受けとめられる親友殿はまったく動じた様子がない。
「うるせぇな。答えろよ」
アリスは笑う。
「つけへんよ」
あっさりとした答えだった。
「――そうか」
良いのかとは問えなかった。
アリスが時々見せる、彼の性格からは思いがけないほどの虚無、それがあの話の中心を占めている。幸せな結果でなかったという以上のなにかがあったのだろう。
そしてこの小説を読むことは、いみじくも片桐が言ったように有栖川有栖の核心に迫る。

アリスの心の内側には扉が2枚ある。1枚目の扉は木の扉だ。誰の訪いも拒まない。けれどその向こうには、鋼鉄でできた扉がある。ほとんどの人間は、その存在自体に気づかない。そして気づいたとしても、たとえ付きあった人間でさえ、アリスはその内側へ踏み込むことを許さなかった。それは10年以上を傍にいた火村でさえ。
この話には、その扉の存在が、示唆されている。
「火村」
「ああ?」
「好きや」
軽く眉を上下させてベッドに転がったままのアリスを見る。どういう類の『好き』か問うような愚は犯さなかった。
「そうか」
火村の端的な返事にアリスは気が抜けたような自嘲的な表情で目を伏せた。
「訊かへんのやな」
「何をだ?」
「どういう類の『好き』かって」
「友情って答えるだろ?おまえ」
訊けばアリスは逃げただろう。だから火村は訊かなかった。
「なんで俺のこと、そんなわかってんのやろな……。君は」
「愛ゆえだろ?」
伏せたカードをめくるように火村は言った。
アリスは黙った。
見知らぬものを見るような目で火村を見た。
「あの献辞を見た時の、俺の気持ちを教えてやろうか?」
手を伸ばしてアリスの首筋に触れる。なめらかにあたたかい。脈拍が生命を伝える。アリスの手に触れたり、肩に触れたりしたことはあっても、こんな場所に触れるのは初めてだった。そのくせ自分のものだと思いこんでいる。我ながら笑止だ。そのまま掌を滑らせる。
細い首だった。ひとひねりもすれば簡単だと思ったのだ。自分のものにならないなら。
昔と変わらぬあまりにも短絡的な自分の思考に火村自身、愕然とした。
アリスは自分の隣りにいるのがデフォルトだといつから思いこんでいたのだろう。
「おおこわ。――聞かへんとくわ」
「賢明だな」
アリスが喋ると掌に、彼の言葉の震えが感じられた。まるで怯えておらず、むしろ楽しそうなのがアリスらしい。
眼差しはやわらかい。この状況でどうしてそうあれるのか、火村には不思議でならない。
掌の下でアリスが含み笑った。
「君の話もあるで……と、ちょっ、力、緩めや」
「ああ、すまん」
動揺のあまり手が滑った。離れ難いと密かに思った首筋からあっさりと掌は外れた。改めて尋ねる。
「……俺の話?」
「そう。君のことが好きやなー、と思った時に作った話」
「――やっぱり血なまぐさいのか?」
「そりゃあもう」
アリスは茶目っ気たっぷりに笑う。小さく咳き込む。
「すまん」
「平気や。――それより読みたないか?」
「ああ。読みたい。ラヴレターなんだろ?献辞もつけてくれ」
衒いのない返事にアリスが赤くなる。
目の前の親友がやたらと可愛らしく見えてきて火村は困る。何が困るかといえば、目の前の相手は締め切り明けでどう見てもやつれているのに、ベッドに転がっているあたりが非常に困る。アリスは自分を覆う危機になど気づいていない。
「君、卑怯やわ。――なんでこんなことになっとんのやろ?」
「そりゃあ愛ゆえ、だろ?」
にやりと笑う。絶句したアリスは自分の両脇を火村の両手が囲って、やっとここが寝室で、ベッドの上であることに思い至ったようだった。望めば逃げられる速度で近づく。
ちょっと迷った目をして、それでもアリスは目を伏せる。
まるで高校生のような、ただ触れるだけのキスをした。

「そうだ、片桐さんから電話があったぜ」
めでたくも色っぽいことにならず、とりあえずアリスに食事をさせた。
冷凍ご飯に、水とサツマイモを加えて芋粥を作る。ほんのり甘いそれは手っ取り早い栄養だ。食べ始めるとアリスの顔色もかなりマシになる。
「あ、原稿着いたて?」
「そう。――心配してたぜ?『この小説は有栖川先生にとって書くのに痛みを伴ったと思います。僕は行けないので、火村先生、よろしく頼みます』ってな」
木匙を咥えてアリスは慌てる。そんな仕草に思わずときめいた自分はかなり重症だと火村は自分で診断した。医者では治らない病である。
「うわ。どうしよ。そんなあからさまやった?」
「――それほどじゃねえよ。担当だからだろ?」
「うう」
上目使いで、情けなさそうに火村を見る。
「なんだ?」
「君の話は、もっとなんちゅうか、色々あからさまなんやもん。――君だけに読ませるのやとあかんの?」
ソファの、隣りに座った。アリスの手から木匙を取り上げ、器に戻す。背中から抱きしめた。
「だめだ」
耳元で囁くと手の中の身体がびく、と竦む。そのくせ柔らかくほどけていることを感じた。
いつも、なにをしても赦されている。
「ん。ま、ええけど。……やけど、片桐さんとか、朝井さんにはバレそうやなー。コワイなー」
「望むところだ」
火村は笑う。
世界中の人間に、彼には想う相手がいるのだと伝わればいい。
そう、例えばNYの空の下にも。

了  2008.4.2 彩

 




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