+ 水温む +


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2月、准教授は多忙だった。どのくらい多忙かといえば大阪府警から胡乱なファックスが届けられても大学から動けないぐらいの多忙である。件のファックスは助手である作家の珍しい活躍により無事解決をみたのだが、入試が無事に終わっても、准教授は未だ大学に縛りつけられていた。教育者の端くれとしては仕方がないのだが、入試狂騒曲の間に溜まった雑事を片づけていると、研究者としての自分が鈍るようで悩ましい。今年は問題作成に関わっていないので、担当の人間に洩らせば石を投げられそうな意見である。元サラリーマンのアリスに言わせれば、「それがサラリー貰う苦労っちゅうもんや」としたり顔で頷かれること請け合いな意見でもあった。
さて、そんな火村准教授の研究室にある夜、ぺろんとファックスが届いた。
「今夜は鍋。すぐ帰れ」
サイン代わりにチェシャ猫のマークが描かれている。
言わずもがな、10年以上の付き合いになる有栖川有栖からのものであった。発信元はと見れば、なんと京都の市街局番だ。どうやらコンビニから送ったものらしい。自分の携帯を見たものの、電源が切れているわけでもない。火村はすっと唇に触れる。アリスの携帯が水没したにしても(あの作家は時々やらかす)、どうやら火村の下宿にあがり込んでいる以上、電話をかけてこないということは、何か仕掛けがあるようだ。
それにしてもなんだ、この電報のような文面は。ついでにおまえは妻か、いや、それならそれで嬉しいが、と心の中でひとしきりツッコミを入れる。我に返って「大阪人がうつった」と呟いたのは、いつもよりも早い時間に電気を消し、研究室に鍵をかけた後であった。

今年はずいぶんと寒い。そして雪が降る。風花を見つつ、火村は革のコートの襟をたてる。風が冷たい。車を降りて、少し歩くだけであっという間に体温が奪われる。見上げた自室に電気は灯っておらず、火村は軽く眉を上げる。アリスは篠宮夫人の部屋にお邪魔しているらしい。屈託がないようでいて、アリスが一人で、他人の、そういうプライベートな空間に入りこむことを苦手としていることを火村は知っている。篠宮夫人の人徳だろう。
だが、からりと引き戸を開けても不思議なことにアリスの靴は見あたらなかった。
「あらあら、火村さん」
出迎えてくれたのは大家夫人で、彼女は口元に人差し指を立てる。
「さっきまで、有栖川さんが来てはったんえ」
小さな声で囁いた。玄関には、とくに他の靴は見当たらない。誰も来ていないはずだ。どうしたのかと訝れば、彼女は居間へ火村を招いた。
火村は呆れた。これが鍋か、と思う。
こたつ布団の一辺に土鍋が二つ、でん!と置かれており、その中には猫たちが丸くなって眠っている。ちなみに鍋は大小あり、大き目の鍋にはウリが眠り、小さめの方にはコオの上にモモが乗っかっている。モモに乗られたコオは重いだろうに、なんだかとても幸せそうだ。ふがふがと、3匹は揃いも揃って安眠中だった。
この状態をなんと言うのか、犯罪と猫にしか興味がないと(主に大阪の推理作家に)言われる火村准教授は知っていた。
「ねこ鍋……」
若白髪混じりの頭を掻いた。こんなことで呼んだのかと思うものの、作家の悪戯に苦笑が洩れてしまう。良く見れば土鍋はどうも新品のようだ。アリスがわざわざ買ってきたのだろう。そのうえ猫たちの毛並みはつやつやしている。コオの腹の毛も真っ白で、どうやらアリスは3匹を風呂に入れてくれたらしい。
「今日、何日だっけ?婆ちゃん」
「2月22日ですえ」
猫の日である。
大家夫人も作家の稚気に笑いをこらえているようだ。
「有栖川さん、3匹にお土産もって来てくれはったんよ」
その高級猫缶で3匹を懐柔して風呂に入れたらしい。
火村は溜息をついた。火村が入試の試験監督で英都を動けなかったことをアリスは知っている。入試が終わったあとも、たいして3匹をかまえない生活を送っていることは作家の想像力に頼らずとも知れたことだろう。3匹の幸せそうな寝顔を見るに、アリスは相当遊んでくれたらしかった。
「ちらしずし、食べてきんさい」
火村はまたも頭を掻いた。この3匹の様子をもうしばらく眺めながら食事というのは猫好きにとってかなりの誘惑だ。
赤絵のお皿に寿司飯を盛って、茹でた菜の花を散らしたそれは、ほろ苦さが春が間近であることを実感させる。色味が美しい春先だけのそれを口に運びながら、ついでに猫たちも幸せそうで、火村もまた穏やかな気分になった。
大家夫人に別れを告げ、自室に帰った火村は窓を開けた。猫たちの前では我慢していた煙草をつける。そうしておいて迷わずアリスの携帯にかける。そろそろ帰りついた時間だろう。してやったりのアリスの表情を見たかったな、と自然に思った。
窓の外は朧月夜だった。
どこか水を含んでしんとした冷たい夜の空気の中、紅梅が匂っていた。帰りつくまではまるで気づいていなかった。
「鍋はどやった?」
アリスの、ほくそえむような明るい声が耳に飛び込んできた。
火村は目を閉じ、ああ、春がきたな、と心の中で呟いた。

了  (2008.2.24 彩)

 


素材提供:Joli様