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単に、風呂場なお話です。

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ずっと隣りにいるこの男に恋をしていると気づいたのはいつだっただろう。大学の卒業前後だったと記憶している。自覚してしばらくは、この感情が消えうせないかと格闘してみたのだが、自分の諦めの悪さを思い知っただけだった。
告白をしたのは3年前のことだ。火村が、フィールドワークを始めたころだと、今になって晒される事実もある。会話をしていても、火村はどこか心あらずで、何かに熱中しているようでいながら【こちら】との繋がりが非常に薄くなったころのことだった。私も焦っていたのだと認めざるをえない。
色々なことを覚悟した上での告白だったが、彼は真摯に受けとめた。呆気にとられた顔が真剣になり、私の顔を穴の開くほど見つめて、それだけでうれしかったことを覚えている。
彼がいつも何を見ているのかは知らない。何を見、何を考えているのか。
孤独をまとい、犯罪に関わるほど彼を覆う虚無は増してゆく。強引な告白は、彼を引きとめる一籌になっただろうか。
返事は保留となり、けれど関係は変わった。私が、フィールドワークで弱っていた火村につけこんだのだ。嵐のように抱かれ、ずたずたにされた。それでいいと思ったし、それをこそ望んだ。今まで私にすら一歩引いて、触れることを許さなかった彼の中の嵐。
そこで終わるかと思われた私たちの関係は今もまだ、続いている。火村にとっても私という存在はそれなりに重かったのだろう。罪悪感ではない。彼がその気になれば、相手を切り捨てられることを知っている。但し火村の場合厄介なことに『自分のため』というよりも『相手のため』ということがほとんどだ。長年の付き合い、その半数以上を恋情をもって過ごした日々は、伊達ではない。火村に対する観察は、積み重ねられている。ポーカーフェイスを装っても、火村の感情の流れならば、経験則で予測可能だ。
私は諦めることはやめ、且つ、望みを持つこともやめて火村の傍で過ごしている。
友人の顔で。何食わぬ軽口で。
そのくせ火村がフィールドワークで弱ったと見るや、容赦なくつけこんだ。
火村は時々、何か言いたげに私を見た。私はそれに気づかないふりをする。
窓の外には嵐が来ている。私はカーテンを閉めた。これで外は見えない。
耳が激しい雨音を拾う。両の手で、耳をふさいだ。





原稿も無事に終わり、私は上機嫌だった。眠りたいだけ眠り、目覚めたときには11時を過ぎていた。寝室の遮光カーテンは、作家にとっての必需品だ。おかげで夜か昼かとっさに判断できなかった。ベッドにダイブしたのが夕方の6時だったからだ。寝すぎによるだるさが頭を覆っていて、昼間だとわかった。我ながらよくもこれだけ寝られたものだ。普通の会社員ならば、これだけ寝れば、満足だろうと呆れる人もいるかもしれない。しかし締切明けの作家とは、これからさらに2,3時間だらだらと眠るのもなかなかオツなものだと考える生き物だった。が、腹が減っていた。私はごそごそと体を起こし、唸った。冷蔵庫に何かあっただろうか。締め切りでせっぱつまったあたりから食べた物の記憶が飛んでいる。
ぺたぺたとプローリングを歩きつつ、伸びをした。肩のあたりが痛い。背骨もパキポキと鳴った。
ううむ。朝風呂とでもしゃれこむか。
こんな時には作家という職業の楽しさが身にしみた。
鼻歌を歌いながら風呂に熱めの湯をはった。
そうしておきながら冷蔵庫をのぞきこむ。
「サンドイッチやなあ」
食パンをトースターに放り込んでその隙にツナ缶を開けた。マヨネーズを控えめに混ぜて、こんがり焼きあがったトーストにサンドした。レタスかキュウリがほしいところだが、締切明けだ。贅沢は言うまい。それにトーストの歯触りだけでも締め切りを乗り越えた身には贅沢に感じられるものなのだ。締め切りがせっぱつまったときならば、トースターの1分ですら待てはしない。
遅い朝食(いや、昼食か)を摂っているときに電話が入った。火村からだった。
「事件だ。来るか?」
「行く」
二つ返事で返した。
電話の向こうで火村が軽口をたたいた。
「なんだ?えらく調子がいいじゃねえか。締切明けか?先生」
「…君な、軽口なら軽口らしく的外れなことを言うかわいげはないんか」
火村は鼻で笑った。
「推理作家のくせに簡単に見破られるお前の方が問題だろ」
「それ言うんやったら臨床犯罪学者のくせに作家を驚かせる突飛な推理ぐらいしてくれてもええやんか」
「そんなのは推理作家の先生に任せておくさ」
私たちは二人して、同時に黙り込んだ。
「キリがねえな」
「まったくや。住所言うてくれ」
電話の向こうで火村が告げる住所をメモに取った。大阪だった。
「君、もうこっちに着いてるんか?」
「ああ。ちょっと錯綜しててな」
それから火村は『錯綜』の内容を軽く告げた。
目撃者の証言と、自首した犯人の供述が合わない。
しかも目撃者の思い違いと単純に決めつけられないほど違いは顕著なのだという。
「すぐ行くわ」
と電話を切ってから、アラームが鳴って気がついた。
「風呂入れとったんやった……」
私はため息をついた。
締切明けの楽しみ、朝風呂はお預けになりそうだった。





それでもシャワーは浴びた。軽くひげもあたってさっぱりする。
マンションに暮らしていると窓の外を見るよりも、一度出てみた方が着る服を決めるには早い。
ベランダに出てから、思ったよりも冷たい風に、とって戻ってジャケットを羽織った。
それから、ふと不安を感じて窓の外、西の空をしげしげと見る。
曇っている。生ぬるい風が流れていた。
真上の空は青いのに、雨の来る予感はぬぐえず、私は折り畳みの傘を手に取った。
そしてその傘を握りしめて、青い鳥を事件現場に走らせた。





現場は新興住宅地だった。40年ほど前に宅地造成して売りに出された地域で、区画はそこそこ碁盤の目に切られている。そこそこというのは、建売で売られる時に、ある程度土地面積の広い狭いを作ったためで、収入によって区画を選べるようになっていた。ために細い路地も存在する。
住むのは当時の働き盛りの夫婦、今では定年退職した夫婦が多い。
信号もない、静かな土地だ。町を南北に抜ける道路が唯一、外界との接触をもたらしている。昼間は出歩く人も少なく、のんびりとしたものだった。
殺されたのは42歳の会社員の男だ。平日の真っ昼間にこんなところで、と思うよりも先に『営業』という職種を思いつく自分は、曲がりなりにも会社員だったのだと感心する。
その通り、殺されたのは浄水器メーカーの営業担当だった。
当初は単純に通り魔とみられた事件だ。
犯人は、細い路地に潜んでおり、通りかかった被害者を殺害したとみられていた。
そして、翌日自首した犯人の供述はそれに沿った。
21歳の大学生の青年だった。
線が細く、神経質な様子の青年は、むしゃくしゃして、と供述した。
現場に残された凶器、細身のナイフに不鮮明ながら彼の指紋が残されていた。男の腹に刺さったナイフを引き抜こうとして果たせなかったらしい。手際の悪さから慣れていないことがわかるように、浜田という青年の経歴はキレイなものだ。
それで終るかと思われた事件は、けれど目撃者の証言によって様相を変えた。
現場を走って逃げる女性を目撃したというのだ。
証言には信憑性があった。宅配の人間が来て、玄関を開けた時に駆けてゆく女性を見たという。だから時間がはっきりしているのだ。若葉色の春色のカーディガンにフレアスカートの女性だという。背格好や目鼻立ちは出なかったが、若い女性だということは予測できた。
それがまったく関係ない人間とは思えなかった。犯行時刻に合致するのだ。
改めて調書を取れば、大学生の証言は、非常にあやふやなものと変わった。凶器の出所すら、わからない。
恋人をかばっているのかと浜田の周辺を探ってはみても、それらしい女性は浮かばなかった。そして青年は自分がやったとそればかりを強硬に繰り返す。
――臨床犯罪学者の出番と相成った。
「凶器に指紋も出とるし、浜田が刺したか、刺した凶器に触ったのは間違いないことなんですわ。指紋の出方からみて、やはり刺してるゆうんが鑑識の見解で私もそやろ思うとります」
通り魔ゆうのはやっかいですな、と船曳はつるりと頭をなぜる。
「二人の間につながりらしきものは見つかりません。会社員の方は普段は違う地区廻っとて、それがその日はここ担当の同僚が風邪で休みやって、同僚の代わりに来たいうんですわ。これはまあ、まったくの偶然や思てええでしょうな」
不運でしたな、と船曳は言う。
「浜田は自首するにあたって、部屋をある程度片づけたんやろかとも思うたんですが、それにしても、恋人がおったんやったらそれらしい気配が残るもんでっしゃろ?それがまあ、キレイなもんで」
恋人の痕跡を隠す時に、特に見過ごされやすいのがキッチン回りと、掃除機の中身だ。浜田の部屋は、浜田しか出入りしていないとみて間違いないという。
「浜田のアパートのゴミの日は?」
「燃えるごみは火曜・金曜です。不燃物は水曜日ですが」
答えたのは森下だ。事件が起こったのは水曜日、浜田が自首したのは木曜日、そして今日は土曜日だった。浜田に何かを捨てる機会はない。もちろん、どこかに捨てに行けば別だが、恋人の痕跡をゴミとして捨てられる人間はそうはいない。浜田がもし、何事かをかばっているのなら元恋人であれ、その女性に未練があると思われるからだ。
目撃者は、近くの家に住む60代の女性だった。夫は居間にいたため、目撃したのは彼女だけだ。チャイムが鳴って、宅配の人間だというので印鑑を持って玄関に出た。そこで走って逃げる女性を目撃した。
「走ってた、だけやのうて逃げてたんや、ととっさに思うたんですわ。なんぞあったんかな、思て向こうの」
と彼女は現場に続く道を指差した。
「方をちょっと見たけど、まあええか思て」
見とけばよかったわ、と彼女は悔しがった。以前ならば見慣れない女が、しかも走っていれば主婦たちは皆、キッチンの窓からのぞいて、井戸端会議の話題にしていたという。それはそれでぞっとしないと私は震え上がってしまう。私などがこの近辺に住んでいればおおよそ「有栖川さんって、まったく怪しげよね」と毎日恰好のカモネギになってしまうだろう。
宅配の中身は通販で、彼女はいそいそと自室に戻り、ダンボールを開けていた。そして女のことは警察が訪ねてくるまで忘れていたという。
火村は彼女にいくつか質問をした。
興味本位に思われる事柄は、けれど火村の口から出れば、まったくそうは聞こえない。
火村は目を細め、指先で唇をたどった。また、現場に戻った。
船曳に尋ねた。
「最近、他に平日の昼間の通り魔は出ていませんか?」





空は急速に陰ってきた。風はそれほど感じられなかったが、上空とは風の流れ方が違うのか、ひくい雨雲が頭上を覆っていた。空気が生ぬるい湿気を含む。
火村は、いくつかの事柄を示唆した。
それらが指し示す事実に、私はまじまじと火村を見た。だがそれならば符丁は合う。船曳は冷静に確かめさせましょうと答えた。
「鮫やん」
「行ってきます」
「え?え?どこにですか?」
「阿呆。それぐらい自分で考えろ」
どつき漫才をしながら二人一組が基本の刑事たちはスーツを翻して駆けて行った。
火村は大学生が隠れていたと証言した細い路地をじっと見ている。
今は何もない場所は、けれど火村の目にはどう映っているのだろう。彼のまなざしは揺らぎもしない。
ぽつりと一粒、雨が落ちた。
見上げると、黒さを増した雨雲が、その重さに耐えきれないとでもいうように、次々と雫を落としている。透明な糸となって地上に降り注いだ。





通り魔は、会社員の方だった。
府内に出没した通り魔の照合から浜田が外されたのは、彼が普段、真面目に講義に出ており、アリバイが存在したからだ。凶器は会社員が持参したものだった。
なぜ、浜田が正当防衛を主張しなかったかといえば、彼にも隠したいことが存在したからだ。
府内に出没した通り魔はすべて、女性を狙ったものだった。狭義の意味では負傷者は出ていない。いずれも路地に潜み、通りすがりの女性の髪を切っている。
――浜田は正当防衛を主張するよりも隠さねばならないことがあった。つまりは彼が、女装癖を持っていたことだ。
彼の使ったかつらと化粧品、そして女性ものの服は、駅のコインロッカーから発見されることとなる。
だが、それは先の話だ。
暴かれた秘密に、浜田は罪が減じたことを感謝しないだろうと私にすら想像がついた。
その想像は正しく、のちに彼は面会した火村を血走った眼で睨みつけ、手ひどい言葉を投げつける。
それもまた、まだ先の話だった。





傘を一本しか持ってこなかった。
それはこの時のためかもしれない。
自分よりも背の高い男に傘をさしかけ、隣に立つ。
左の肩が濡れた。
春雨というには、雨には鋭さがある。とても濡れていこうなどとは言えない冷たさだ。
空は雲行きを更にあやしくしている。暗く、雲の合間に黄色みを帯びた光が明滅していた。
「先生、ちょっと」
船曳に呼ばれた。これ以上はすぐには出ないだろうし、一旦、引き揚げるという。
「ああ、わかりました」
「先生はどうされますか?浜田には……」
「面会は、証拠がそろってからにしますよ」
そっけないほど感情の伴わない声に火村をちら、と見た。横顔もまた、削ぎ落としたように感情が感じられない。私は眉をしかめた。火村が、フィールドワークに措いて後悔をするまいとしていることは知っている。犯行にかかわりのある秘密を見逃せなかったことも。
けれど正当防衛であることと引き換えにさえしようとした秘密だ。浜田が絶対に暴かれたくはなかったこともまた、火村にはわかっているだろう。
白のジャケット、右肩を、雨粒が叩く。
私は黙って傘を火村の方にさしかけた。左の肩がつめたく濡れた。







雨脚は強くなっている。火村に京都に帰るかとは訊かなかった。火村を助手席に乗せ、ハンドルをとった。ワイパーの速度を上げる。寒さに体を震わせた。唇から洩れる呼気は白い。
火村のまなざしは私を見ない。
私も軽口をたたくことはしなかった。火村を見ない。
駐車場に止めて半端に濡れながら、ものも言わずマンションのエントランスへ飛び込んだ。
エレベーターを上がり玄関を入って、鍵を閉めた。そうして私はうつむき、ひとつ息を吐いた。濡れた頬が冷たい。髪からしずくが滴った。廊下にぽたりと落ちる。湿気が首筋にまとわりついて不快だった。指先が凍える。私たちとともに玄関をくぐった冷気が、しんと沈黙に似て漂った。
黙ったままリビングに向かう。火村がついてくるのがしけった足音で感じ取れる。ジャケットだけはハンガーにかけて鴨居につるした。鴨居が傷むから、めったにこんな真似はしないが雨の日ぐらいは仕方ない。後ろに手を伸ばして火村のジャケットを受け取った。並べて掛ける。さて、と振り向き、火村を見上げた。火村の目には表情がない。今さらそんなことで怯みはしない。
腹に力を込める。唇に笑みを形作った。
「君も結構濡れたなあ。はよ、シャワー浴びよ」
言い置いて、風呂場に向かう。春の、ひんやりとした冷気が私の背中を凍えさせた。ついてくる足音はしない。
脱衣所でシャツを脱ぐ。肩がこわばっている。不自然なほど前だけを向いてジーンズも洗濯機に放り込んだ。
こもった音をたてて風呂場のドアを開く。背後に火村の気配を感じた。
震えたがる歯を、噛みしめる。
一歩を踏みこんで、そこでくるりと振り向いた。
笑っているように見えるだろうかと危ぶみながら唇を、ひきあげる。
「はよ、入ろ、火村」
廊下に続く戸口に半分体をもたせかけながら、どこか所在のない様子でいる火村を誘う。ちゃんと、誘う眼をしているだろうか。私は。
火村の目の色は暗い。私を見ていながら、火村が見ているのは私ではないだろう。私を突き抜けた、どこかだ。そんなことに今さら傷つきはしない。
「……ああ」
低い声が鼓膜に滑り込み、冷えていたはずの体温をひき上げた。体がふるえて、私はあわてて火村に背を向け、シャワーのコックをひねる。
「ひゃっ」
頭から冷たい水を浴びて、思わずたたらを踏んだ。
体勢を崩しかけた私の腰を、しっかりとした腕が支えた。





「ひ、むら……」
「馬鹿」
「馬鹿言うな」
拗ねた声になった。
頭から降り注ぐ、冷えていたシャワーの水が熱くなり、温度を調節するために伸ばした手首をつかまれる。両の手首を逆手に持たれると、私に逆らうすべはない。そもそもはじめからそんなことは放棄している。火村はまだ服を着たままだ。黒のシャツが水を含んで火村の体にまとわりついている。細身なくせに、筋肉質な体のラインがあらわになる。とんでもなく艶っぽい眺めだ。
「火村……」
壁のクッションタイルに押し付けられて、降り注ぐ水と共に口づけを受けた。
身長差のせいで壁に当たる仰のいた後頭が痛い。角度を変え、深さを変えて、口付けは続く。暴力的なほどなのに、飢えを感じさせない。むしろどこかで醒めている。
舌を差し出し、火村の口腔を探る。並びの良い歯をたどって、その隙間に差し入れると、噛みつかれるかもしれないという、本能的な恐怖が一瞬からだを竦ませる。
無視して、彼の舌に自分のそれをすりつけた。味蕾が、彼の唾液、キャメルの苦みを感じ取る。ぞくぞくとした。降り注ぐ水が頬を伝い顎を滴る。濡れて額に張り付く火村の髪を見ていると胸の奥がざわめいた。濡れた水音がそれに輪をかける。シャワーの隙間に口付けの音が反響する。糸を引いて舌が離れる。息を弾ませていると、火村の手が、私の手首の戒めを解いた。ずるずると背中を壁に添わせたまましゃがみ込もうとした。けれど叶わなかった。
いつも冷静な理論を紡ぐ唇が首筋に移る。跡を残して、降りてゆく。火村の唇は的確だ。冷静というよりも、底に潜ませた、凍るような冷たさを感じ取る。反動のように唇からもたらされる熱は熱い。呼応する熱さが私の体の芯からたちのぼる。唇は鎖骨に落ち、くすぐったさに息を乱した。
歯が、ごく軽くたてられて、その刺激に喉声があがる。こもった音は反響めいて天井から降り注ぐ。湯滴とともに頭から浴びた。
さらに強く歯をたてられる。
噛みつくような。
愛撫と呼ぶにはあまりに荒っぽいやり方に火村の肩にかけようとした両手を壁に添わせた。仰のくと間断なく降り注ぐシャワーが頬を濡らす。あぎとを伝って滴った。ちら、と下へ眼をやると火村の唇は胸元からわき腹までを何度も辿って、そこここで痛みに似た、けれど全く違う感覚を残している。息を詰める、その場所で赤いしるしが増やされた。執拗なそれは、けものが今から屠る獲物に何度も牙を立てるのに似る。情よりも執着を感じる。それで興奮する私自身もどうかしている。足裏が冷たいのに、頭がぼうっとのぼせるようだ。
「ひ、む……ら」
唇で性器を捕らわれて、体が無意識に火村を押しやろうともがいた。眼下で行われているだろうことを直視できずに仰のくと、冷たいほどの水が顔に降り注ぐ。
さっきまで熱かったはずなのに。
冷えた体には熱く感じられたシャワーは、いまはそれを通り過ぎている。体温が上がったために逆にぬるいと体感するのだ。けれど火村の口腔はさらに熱い。吸いつき、舌を絡めるように的確に追い上げられて膝が崩折れそうになる。火村の両腕が私の膝を抱えるように支えてそれを許さなかった。
「火…村っ、はなせ…っ」
闇雲に両手を伸ばし、火村の髪をつかむ。あっさりと外れたそれに一瞬、正気に戻った。
「ふ…。いいのか?」
笑う吐息がかかった。触れながら喋られて、その振動にわけもわからずかぶりを振る。耳まで熱い。髪先から雫が滴った。
体が心許ない。体を返されて、浴室の壁に正面から押し付けられる。火照った頬には冷たいほどのそれにひとつ、息をついた。
泣きたい気分なのはなぜだろう。
望んだのは、私だ。
頬に張り付いた髪がひきつれて痛い。
益体もないことを考える。
冷静な指先が竦む体の奥に触れて、暴くための道を作り出す。
私自身が望んだことだ。
目を強く閉じて、息を吐く。
その嗚咽に似た響きに一瞬、息を止め、浴室で音が響くせいだと頭から振り払った。
必死に息を吐く。火村の指が増えた。
体勢のせいだろう、なかなか体はゆるまなかった。
頭の芯がぼうっとなる。
火村の、荒い息がうなじにかかって、このまま抱かれたらつらいな、と諦めとともに思う。
抵抗はしない。
けれど。
「や、や、火村……」
「イヤじゃないだろ?」
背後から耳朶を含むようにされて膝が揺らいだ。首筋に唇が落ちる。背中にも。ざっと肌が粟だった。笑うような声が続ける。
「おまえ、結構背中とか弱いよな」
触れながら喋る。その振動にかぶりを振る。そんなことは知らない。こぶしを壁に押し当てる。背中が反った。
「いや…や…っ」
「だからイヤじゃねえだろ?」
火村の指のたてる音が滑らかに甘い水音に変わっていて、気づけば羞恥は増した。
戯れのように耳朶を食んだ唇が少し離れ、私の目の前に来る。
何で君は楽しそうなんや!と叫びそうになる。薄い唇はやわらかく笑んでいた。
指が抜かれた。
背後でシャツのボタンを外す音がする。バックルを解く、金属音も。しけった布を取り去る濡れた重い音がして、その間を待つじりじりとした感触に額を壁に押し当てる。ため息は重い。風呂場でよかった。眼尻に涙が浮いていた。
腰を引き寄せられて、どうなるかわからないこわさに背中が竦む。唇がつむじに押し当てられて少し、うつむく。それが合図となった。
「あ、ああっ」
声を出した方が楽だと知っているから遠慮などしたことはない。けれど響くそれにぎょっとなる。火村ははじめからそんなことなどわかっていたのだろう、まるでためらう様子がない。慎重に私を引き寄せる手つきに、彼がそこまで我を忘れていないことを知る。
息を吐くごとに受け入れる深さが変わって目眩がした。やわらかくゆすられる。軽やかなシャワーの水音に交じって淫猥な濡れた音が響く。自重のもたらす深みに仰のけば逆しまに卵色の天井から糸のような湯が間断なく降り注ぐ。
背中に落ちるシャワーの水流と相まって感覚があおられる。闇雲にくびを振ると、耳に水が入って体が止まる。一瞬逸れた意識を咎めるように火村の抽挿が激しくなる。壁に指を這わせてすがった。それすら咎めるように腰を引き戻される。体の中心を生々しくえぐられる。つらいはずなのに声を上げずにはいられない。首筋に火村の、荒い息が感じられてするどい歓喜が貫いた。体の中も、意識も火村でいっぱいになった。





水の音がしている。
唇に冷たいものが触れた。熱さに霞んでいた意識の中で唇をひらく。
「ん……」
口内に滑り込んできたそれは火照った体に心地よく感じられて舌で味わう。
繰り返すうちに冷たさが減じた。
引き抜かれる。また水の音が響く。そして再び唇に冷たさが触れる。
唇を開いた。目も、ぽかりと開く。私は硬直した。
私が咥えていたのは火村の指だ。
「ひ…むら…」
こもった声になった。声を出そうとすれば火村の指をまざまざと感じることとなる。
体は後ろから抱きとめられていた。湯船に半身を沈めて、背後から火村の手が私の体を支えていた。ボクシングをしていた腕は筋肉が張りつめている。ゆるく体を洗うしぐさは繊細に優しい。体の内側も外側も、おぼれそうなほどに濡れている。
火村の左手は私の口内から引き抜かれた。ふと見れば、バスタブの外ではカランから水が落ちている。その水に指を浸し、冷えたそれが三たび、私の唇をたたいた。私はぎこちなく首を振った。
「もう、ええよ」
バスタブのふちに腕をかけて身を起こす。そのまま立ち上がろうとすれば火村の腕が私の腰に回り有無を言わせぬ力で引き寄せた。バランスを崩して火村の胸に倒れこむ。派手な水音が上がった。
「……っ、ひ、むらっ?」
赤くなった。腰には覚えのある硬さがあたっている。私はひたすら硬直した。
「――だっておまえ、フィールドワークのあとぐらいしかやらせてくれねえし」
背後から抱き締められて、拗ねたような声に体から力が抜けた。

なんやそれ。

確かに今までも、火村と居て、何かのはずみで、なんとなくそういう雰囲気になりかかることはあったのだが。
気のせいだと思って、いつも、殊更に友人らしい振る舞いをしていたように思う。
気のせいじゃなかったのだろうか。
気が抜けて、目を閉じた。後ろ首を火村の肩にすりつける。
「アリス?」
「ん…」
耳を澄ますと火村の鼓動が聞こえた。
それは常よりも早く、次に来るだろう嵐の予感を孕んでいる。
少しも怖いと思わない自分がおかしい。
身じろぎをして、振り向いた。火村の目は、戸惑う色を残している。
小さく笑って腕を伸ばす。
嵐のただなかに飛び込むように、口付けた。

了(2009.4.21 彩)

 

 


* なんか足りない。そう思ったあなたは正しいですー。

もっと事件も書いてたのだけども「そんなのは、欺瞞だ」(←久々に出たよ…)の一言でバッサリ切り捨てたのだ。

そしてホントの宿題はバスタブだったはずなんだが…。まあ、いいや。このあとこのバカップルはバスタブでコトに至るし。