+ あらしの夜に +


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窓の外は風が吹いていた。雨のたたきつける音が混じって、びゅうびゅうと窓ガラスをたたく。それは誰の心の中にも似た嵐の音だ。みな、固唾をのんで彫像のように動かない。
玄関ホールには、この家の人間たちが集まっていた。すでに何人もが死に、たった二人となった家族は、今さらに数を減らそうとしている。死にかけているのは、この家の子供だった。まだほそい首筋からは鮮血があふれている。それを抑えようとする火村の手は、すでに血に染まっている。ぬるりと滑った。舌打ちし、必死になって止血する。血は、流れすぎていた。すでに無為なことだと悟っていた。少女の顔は青白い。
ひゅうと、少女の喉から風に似た音が漏れた。
尽きる命を物語るように、ひっそりとした音だった。
血が流れ込んだのだろう、薄い胸元の、肺のあたりでこもった嫌な音がした。
「わたし、しんじゃうのかなあ」
「ちなつちゃん、だまって」
少女の手を握った有栖が厳しく口にした。うん、とうなづく。一刻を争うというのに、ここは山の上だった。救急車は30分かかるという。この嵐でさらに遅れることだろう。
愛らしいピンク色のワンピースを血で染めた千夏はかすかに笑った。父親が何をしていたか、そしてそのお金で自分が贅沢をしていることを彼女はうすうす知っていた。むくいが来たのだと思う。家政婦としてやってきた坂下は優しかった。そう、実の母親のように。その彼女が「私の子供を帰して!」と悲鳴のように叫んだときから彼女はもう、諦めていた。
だから避けなかった。
けれど間違ったのかな、と、ちょっと思った。彼女を刺した瞬間から、坂下もまた、崩れ落ちてしまったのだ。呆然と泣きながら、千夏の命が尽きるのを眺めている。
またたいた拍子に涙が転げ落ちた。痛みはもうない。心のどこかでこのまま死んでしまうのだとわかっている。指先が冷たい。千夏をぎゅっと握る手は、必死で、震えていて、千夏よりも冷たいほどなのがなんだかおかしい。この人たちは父の罪を暴いたのにと、はじめから優しかった男の人を見上げる。作家だと言っていた。読みたいなというと「ちなつちゃんには、まだ早いなあ」と照れたように笑っていた。見上げると錐で刺したような痛みが戻ってきた。声を絞り出す。「なにかお話して」
有栖はとっさに、自分の内にある話を探った。
ここに在る痛みを、くるしみを吹き飛ばすほどの話を。
出てきたのは、陽光あふれる、5月の英都大学だ。
ふるえる声で、つかえながら隣にいる男との出会いを語った。千夏がうめきながら、それでもかすかに笑うのが救いだった。玄関ホールはしんとしている。届くのは嵐の音ばかりだ。そのなかに救急車のサイレンが聞こえないかと有栖は耳を澄ます。木々が枝を擦り、しなう音しかしない。
「それで出てきた言葉が『アブソルートリー』って、もちろんってゆう意味なんやけど、英語の返事なんや。ホンマにおかしな奴やって思って」
いつもならまぜっかえす火村の声もしない。黙って千夏の首筋をおさえる彼はジャケットのそで口まで血で染まり、滴るほどだった。
カレーをおごってもらったこと。そのあと、友人になって、他愛もないけんかもしたこと。お互い、やりたい仕事に就いて、それでもまだ、そばにいること。話は散り散りに飛んだ。
「いいなあ」
少女が言った。私もともだちとそんなふうにすごしたかった。
夢見るようなまなざしは、徐々に光を失っている。有栖はとっさに火村を見た。彼はただ有栖の目を見返しただけだった。絶望が澱のようにこの豪奢な屋敷を沈めていた。不意に激しい女の泣き声がした。男が、坂下の家族を死に追いやった千夏の父が狂ったようにそれをなじる。ふたりはそれぞれ、一対のように森下と鮫山に取り押さえられていた。
やめてくれと有栖は思った。有栖の手を握り返す千夏の手の力はぐったりと弱い。有栖は叫んだ。
「君は、おおきならな。友達をもっとつくって」
サイレンの音が聞こえた。闇を駆けて近づき、絶望に沈められた館の扉を開いた。雨と、風の音が直に響く。
玄関に横づけられた救急車の、赤色灯が差し込んだ。白衣を着た男たちが、なだれ込み、てきぱきと千夏の様子を見る。千夏を止血する火村の手技の確かさに、「あなたはそのままで。一緒に乗り込んで下さい」と言った。
「アリスさんのおはなし、読みたかったな」
ぽつんと、喘鳴に紛れた少女の声が残された。





少女は明け方、息を引き取った。坂下は逮捕され、千夏の父もまた、道義的なだけではなかった罪を暴かれ獄に就いた。
有栖の生活に、そのあとも変化はない。作家として文章を紡ぎ、脱稿したといっては火村を呼び出して酒を飲んだ。
声をかけられればフィールドワークにもついて行く。
一度だけ火村が「来るか」と言うのをためらった事件がある。
子供の巻き込まれた事件だった。有栖はついて行き、常のように火村の隣に立った。
嵐の夜には、ときに少女のことを、思い出す。初めて会った時には父親の背中に隠れるようだった少女は、有栖のなぞなぞに目を輝かせた。
しばらくしてから望んで、ジュヴナイルを一本執筆した。殺人のおきない、少年少女の冒険譚だ。
宝を探す子供たちを描き、彼女への手向けとした。
「アリスさんのおはなし、読みたかったな」
あらしの夜には、風の隙間にひっそりとした少女の声を思い出す。
「私も友達とそんなふうにすごしたかった」
部屋を闇に沈めても、夕陽丘の向こうには明々とネオンがともる。窓ガラスに、ひかる涙のように雨が打ちつけた。
衝動のままに火村の携帯にコールした。
「どうした?アリス」
「なんもない」
皮肉で優しい声に胸の奥のわだかまりが溶かされる。
有栖の声が弱かったからだろう、やや急いて准教授が言った。
「なんだ?食事してるのか?倒れてねえだろうな?」
見当違いの言葉に笑って、「なんか作ってくれや」とわがままを言った。


了  2009.8.23  彩