薔薇は眠る 


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ヴァレンタインには、チョコと薔薇と告白を。


咽喉の渇きで目が覚めた。
常とは違うそれに夕食の土手鍋のせいだと気がついた。
その考えとともに意識が覚醒する。
真夜中の静けさを壊さぬように、私は努めてゆっくりと起きあがった。ベッドを抜け出す。
夕べは火村がやってきて、「今夜は土手鍋だ」と宣言した。
冬になるとちょくちょくあることだ。
お互い侘しい一人暮らし、普段の食事に事欠くことこそないのだが(いや、私はあるか)、鍋はいけない。
あれは一人で食べるとなんとも孤独さが迫ってくる食べ物だ。
おまけに牡蠣は食べられない人がいる。婆ちゃんは数年前、ノロウイルスにあたったとかで、火村は下宿で牡蠣を食べなくなった。彼は博学だ。ノロウイルスは加熱すれば死滅する。一度あたったからといって、アレルギーのように2度と食べられないわけではない。そのことをちゃんと知っている。知っているが大家の婆ちゃん相手には理詰めの正論を振りかざすことはしない。実の祖母には敵わない孫のような。そういう火村を見ると私はいつも微笑ましく感じる。
それでも食べたくなるときはあるようで、だから火村は牡蠣が食べたくなると我が家へやってきて、ついでに鍋をしていくのだ。
食事を作ってもらう分には私に文句などまるでない。日本酒を傾けながら火村の鍋奉行ぶりを眺めていた。
試験の採点に新学期の準備と疲れているのか、火村の口数は少なかった。
口数が少なければ、勢い、酒量は増える。差し迫った原稿のなかった私も黙ってそれに付き合った。
夜も更け、お互いあくび混じりになったころ、仕事が残っているからと火村はそのまま帰っていった。私も強いて奨めなかった。はじめから伝えられていた、ということは帰る意思は固いということだ。
夕べの火村は、少し様子が違って見えた。
私と食事をしたことで、なにかしら屈託が晴れたのならそれにこしたことはないのだが。
次回は私が訪ねて行って、あまり巧くない手料理でも振舞ってやろう。
そんなことを考えながら冷蔵庫を開けて、――ギクリとした。
目当てはエヴィアンだったのだが、そしてそれはあったのだがそれどころではない。
真夜中のキッチンに、冷蔵庫からクリーム色の光が溢れる。
白く切り取られた密室の中にそれはあった。
てのひら二つ分ほどの平べったいこげ茶色の包み紙に金色のリボンがかかっている。その隣りには、ガラスのコップに水が注がれ、薔薇が一輪、挿してあった。
爆弾でも見つけたように私は思わず冷蔵庫を閉じた。気分は本当にそれに近い。
誓って私が入れた物ではなかった。だとしたら、これを入れられた人間は一人しかいない。
リビングに戻ってファックスを見る。表示は2月14日を示している。
「火村……っ」
私は怖々と冷蔵庫を見た。
中身は間違いなくチョコレートだろう。
コンビニで買ったものには見えなかった。明らかにデパートで買ったと知れる上質なパッケージ。金色のリボンが丁寧に、ふんわりと結わえられていた。
隣りにあった薔薇は、真紅。
花言葉は、どんなに疎い人間であれ間違えようがない。

――あなたを愛します。


絶望に私は目を閉じた。
本当は知っていた。
火村の目に、時々混じる色に。
火村が決して何も言わなかったから私も黙っていただけだ。
火村は、態度にすら表すまいとしていたから。
ただ、目だけが時々、熱を持って私を見た。
ずっと見ないふり、知らないふりを続けていた。冷蔵庫にあったチョコレートはそんな私を糾弾する。
高級そうなチョコレートに薔薇の花。
絶対にシャレにはならない。
多分、一縷の望みがあるとすれば、ここに火村がいないことだろう。
無視してもいいのだ。
私がこのままなかったことにしてしまえば、火村はそれ以上を仕掛けてはこない。
もう水どころではなかった。咽喉の渇きなど無視して寝室に戻り、ベッドの中に滑り込む。頭から布団を引き被って目を閉じた。


気がつくと私は真っ暗な闇の中にいた。立ち尽した足下が冷たい。足は水に浸されているようだ。歩こうとしても身動きが出来ない。声も出ないようだった。
どうしたことだろうと不思議に思っているといきなり周囲が卵色の光で満たされる。
白い周囲は……これは我が家の冷蔵庫の中だ。目の前に私を覗きこんでいる人がいる。
私だった。
驚いたものの声は出ない。そして私は気がついた。
私は薔薇の花になっていた。足下が冷たいと思ったのは、ガラスのコップに挿されていたからだ。
冷蔵庫の中を覗きこむ私は、酷く冷たい表情をしている。薔薇が見えていないのかと訝ったもののそうではない。焦点はきちんと薔薇である私自身に合っている。見えてはいるものの、そこにあることを確かめただけで無関心な様子だ。手に取ることもなく冷蔵庫を閉めてしまった。あたりは再び闇に包まれる。
私はひどく哀しくなる。
私には身を守る棘もない。手にとっても傷つくことはないのだとそう伝えたかった。けれど声も出ない。外にいる私は薔薇である私を疎んじている。枯れてしまうことを望んでいるのだろう。
冷たい密室の中、私は諦めとともに目を閉じた。眠ろう、と思う。
外にいる私が、再びこの密室を開く気になるまで。


酷い夢を見た。
よろよろと起きあがって私はキッチンへ向かった。冷蔵庫を開くとチョコレートも薔薇も、先刻と寸分たがわぬ様子でそこにある。記憶の妙を感じることに、真紅の薔薇に棘はない。花弁に触れると指にしっとりとした感触が伝わった。目眩がする。
あの夢を単なる夢と解釈できるほどおめでたくはない。
夢の中の薔薇、あれは私だ。
私自身がずっと無視し、否定してきた火村への恋情だ。
枯れることを待って待って、けれど薔薇は枯れる様子もなくこの胸の内にある。
吸い寄せられるように、手がチョコレートへと伸びた。頭の中では警鐘が鳴っている。
金色のリボンを解く。
包み紙をペリリと剥がした。
箱を開くと、中には艶やかなチョコレートが並んでいた。震える手で一粒を摘む。
口の中に入れると甘くて苦い味がした。目の前がぼやけている。
泣きながらもう一粒を口に含む。目を閉じて火村を想った。


ベッドの中で目を覚ました。太陽はもう昇っているらしく、自由業の良さを実感する。
泣いた余韻で目がはれぼったい。私は苦笑する。口の中は甘く、チョコレートの匂いがして、あれを夢だと疑ういとまもなかった。
白い密室の中で咲く薔薇のことを考える。
枯れない花がないことは勿論知っているのだけれど、無理に枯れることを望まなくても、もういいかとそう思う。
今日はまだヴァレンタインデーだ。
今度は私が火村の元へ行こう。
チョコレートも薔薇もないけれど。
告白を持って。
君が好きだよと伝えるために。

了 (2008.2.17 彩)


素材提供:Salon de Ruby