「ひむらー。元気しとったか?」
呑気な笑顔で尋ねられて、火村は持っていた資料を取り落としかけた。
「おま……なんでいるんだ?」
「んー。京都のクライアントのとこ寄った帰り。ラッキーやで。今日直帰にしてもらえてん」
久しぶりに会った親友は、にこにこと他意のない笑顔で歩いてくる。火村は頬をつねりたくなるのを我慢した。
今日は2月14日である。
世に言うバレンタインデー。
神も聖人も信じてなどいない火村だったが、世間の浮かれた空気ぐらいは知っていた。
ちなみに火村も人並みに、チョコを欲しいとは思っていた。但し人並みでは全然ないことに、目の前にいるこの親友からならば欲しいと思っているのである。
貰える確率なんて、あまりないだろうと解っている。
しかし世間の常識では量り難いのがこの親友の凄いところで、火村はポーカーフェイスの下でなかなか忙しく考えをめぐらせていた。
……ところでそんな日に想い人に会えた喜びよりも先に確認すべきことがある。
今の時期は入試の関係で部外者は卒業生といえどおいそれと入れられない。警備員がいるはずだ。火村は院生だからフリーパスで入れるが、顔の知られた彼とて学生証を下げている。
「で、……どうやって入ったんだ?」
「やって、業者やって言うたら一発やねん」
アリスが手に持っているのは納品書の束だ。宛先は勿論、英都大学ではない。
「おい……」
「ここまで来て、火村に会えへんの悔しいやん。下宿で待っとっても君、いつ帰るかわからんしなあ。――またちょお痩せたやろ」
アリスの目が、いたわるように自分を見たのを感じて、火村はスッと目を伏せた。
「まあな。おまえだって似たようなものだろ?」
スーツの下の身体が細い。買ったときは体に合っていただろうシャツは首まわりが泳いでいる。
「はは。まあ、お互いそこは、指摘せんとこ」
「これだけ置いたら帰るか。なんか夕飯作ってやるよ」
「やった!」
屈託のない笑みにつられて笑う。アリスと連れだって歩いていると、学生時代に戻ったようだった。今だって火村は学生だが、どうしても隣りにアリスがいたころばかりを思い浮かべる。おそらく未来においてもそうだろう。
廊下は静かで、実は不法侵入のアリスは人気の少ない校舎を物珍しそうにきょろきょろ見ている。
研究室に顔を出して、帰る旨を告げる。帰宅の札を下げて下宿への道を歩いた。
「君、チャリやないんや?」
「雪の予報が出てたからな」
「降らんとええよな〜。受験生大変やし……。あ。そや。これ」
ポイ、とスーツのポケットから放り投げられたのは、この時期限定のチョコレート菓子だった。ピンク色のパッケージに『雪見桜』の文字が踊る。『きっと勝つ』に引っ掛けて、受験生をターゲットにしているのだ。裏には『サクラサク』のロゴ。
「懐かしいてつい買うてしもたわ。英都受ける前の日食べたん。君は?食べへんかった?」
「生憎そんな商品戦略に引っ掛るぐらいなら、英単語の一つも余分に覚えたほうが確実だな」
「高校時代から君は君やな〜」
アリスは屈託なく笑っている。
これは貰ったことになるのだろうかと火村は心中、穏やかでない。返せといわれる前に食べれば貰ったことになるとパッケージを開ける。
「食う気か!俺のキットカット」
「ケチケチ言うな」
アリスの表情は見られなくて、殊更に軽く言う。ピンク色のブロックを半分に割って急いで口の中にほうり込んだ。噛み砕きながらアリスを見ると、困ったような、気が抜けたような複雑な表情をしている。
「悪かったよ。ほら」
残った半分を、アリスの口元に差し出すと、ぱくん、と食べる。
そのまま何も言わず、下宿への道を歩く。
からかい混じりに今日はなんの日か知っているかと訊こうとして、やめた。
パッケージの裏には『きっとサクラサクよ』の文字。
口の中で、未だ来ぬ春の香りがした。
了 (2008.2.13 彩)