+ 暁闇 +


   

 


唐突な目覚めだった。寝室はまだ、夜の底にある。
目覚めは胸苦しさのせいだ。
意識して呼吸をすると胸の奥で妙な音がする。どこか喘鳴に似た。それで私は寝る前にひどく泣いたことを思い出した。普段なら気にもとめない胸の奥が痛む。
メンタルな痛みなどもう慣れた。それなら朝まで忘れたふりで眠っていただろう。そうではない。フィジカルに痛むのだ。
この薄っぺらい胸の内側に肺が在ることを考える。肺胞、横隔膜、気管支。そのどれかかもしれないし、すべてかもしれない。はっきりしているのはこれが、しゃくりあげ声をあげすぎた情事の余韻だという事だ。
ゆっくりと首をめぐらせば火村はまだ深く眠っているようだった。
ちいさく息をついた。首を戻して天井を眺める。
今回のフィールドは酷かったのだろうとなんの感慨もなく思う。
私はついて行けなかった。連載を抱えていたからだ。事件はすぐ終わるだろうと火村は言っていた。そしてその言葉の通りになった。
けれど長短は問題ではないのだ。その事件の中身、犯人の理屈だけが火村を揺らしえる。現場で『それ』を見せる火村ではない。けれど、ここにかかってきた電話にだけは如実に現れた。
「終わった。泊まらせてくれ」
「わかった。事故るなや」
「馬鹿」
掠れた響きが耳に残った。濃い、情欲の響き。体の奥をつかんで、揺さぶるような。
「阿呆」
切れた電話に向かって呟く。書斎に急いだ。書きかけの文章を保存するためだった。

大阪府警から夕陽丘まではさほどの時間もかからない。ドアを開けて火村の顔を見た瞬間から私は覚悟を決めていた。火村はなにも言わず疲れた様子で、そのくせ目だけは明らかにけもののような餓えを宿して私を見た。密かに溜息をつくことに、こうして部屋まで上がっていながら火村は求めてきたりしない。強情さは折り紙付きだ。そんなものは丸めて投げ捨てろと私は思う。
仕事か火村かと問われれば私は仕事を取らざるをえない。それでもそれ以外ならば自分をすべて開け放つ覚悟で火村の手を取っている。今更だ。
「火村。ええで」
言葉が終わるよりも先にソファに組み伏せられていた。

後で思い出すたび、いつも私は苦々しく思う。何故自分があんなことを言ってやらねばならないのだ。
欲しいなら欲しいと言えばいい。私は拒まない。火村は知り尽くしているはずだ。
原稿が切羽詰まっているときは、そもそも火村が来ること事体を拒む。原稿の方を投げ捨てたくなる自分を知っているからだ。
私が断ったとき火村がどこへ行くのか。
意外に早く原稿が上がったときに、もしやと思い、その足で京都に向かったことがある。
密かに疑問であったそれが晒されたとき私はほとほと呆れかえった。火村は北白川の下宿へ直行していたのだ。ほんまもんの阿呆や、と溜息しか出なかった。
見目だけはよい男なのでその場限りの相手であれ引っ掛けることは容易いだろうに。
傷を負った獣が巣穴でひたすらに疵の治りを待つのにも似て、丸くなって布団をひき被った火村を足蹴にして起こした。そのあとのことは思い出したくもない。
うっかり諸々の映像が浮かんで頬に血が上った。阿呆は俺もやけど、と心の内で付け加えた。

目を閉じてみても一度手元を去った眠りは容易に戻ってこなかった。
目を開いても闇ばかりが目に馴染む。
(暁闇やな――)
暁の前が、夜の中で最も昏い。
首だけを傾けて、もういちど傍らに眠る男を眺めやる。
夢は見ていないのだろう、精悍な横顔は普段にない穏やかさを伝えている。安堵した自分に苦笑せざるをえない。
「阿呆やなあ、ホント」
誰へともない呟きは暁闇に溶けた。
いずれ来るだろう朝がひどく遠いものに感じられて子供のようにちいさく震えた。

了   (2008.1.24UP 彩)

暁降

 

 

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