ヴァレンタインデイ・キス 


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今年の2月14日は木曜日である。
微妙なことだと私は頭を悩ませていた。
ここ最近のパターンからすれば、火村は講義のない13日、夕陽丘にやってくると思われる。これは推理でもなんでもない、傾向と対策という奴だ。
さて、ここからが問題である。
世に言うヴァレンタインデー、聖人のお祭りを私はスルーすべきか否か。
「クリスマスはまだええんやけどなあ」
ソファに寝っころがりながら、一人ぼやく。
あれは海外ならば家族や友人で静かに過ごす日だからだ。それを言い訳にこうなる以前、私は火村とクリスマスを過ごしていた。それが今や恋人たちのお祭りにそのものズバリの意味で便乗しているのだから……いやはや、人生はビックリ箱だ。
しかしてヴァレンタインデーは「女性から男性にチョコとともに愛の告白」である。
近年は友チョコなるものも有るらしいが。……いやいや、男二人で友チョコは、いくらなんでも苦しすぎる。
火村にチョコを貰うことを想像してみて、私は一気にぐったりしてしまった。
私自身はキッパリ必要ないのであるが、火村がどのように考えているかは謎である。しかしここで渡してしまうと、おそらく来年からは毎年催促を受ける。それはツライものがある。
ここは一発スルーだと私はそう結論付けた。

……のわりに、コンビニに寄ったついでにいじましくチョコ売り場を覗いてみる。
デパートやスーパーならばともかくコンビニならば!
……せめてチョコレート菓子にしておこう。
カラフルな包装紙の前は素通りしてしまうあたり、自意識過剰かもしれないと、私はこっそり溜息をついた。
かくして2月13日、我が家のお菓子ボックスはチープなチョコレート菓子で満タンである。ツマミにならないこれらに火村がどう反応するかは『謎』の一言に尽きた。

ぴんぽーん。

いつものごとく軽やかにチャイムがなった。
「よお、生きてるか。作家先生」
「助教授先生はお疲れモードやな。試験の採点か?」
「どうした?!アリス。世間から隔絶されてる作家先生のくせに」
「あ……はははは」
まさかヴァレンタインを意識しすぎて日付に敏感になってたとは言えない。
しかしなんだ。その、捻りの効きすぎたセリフは。素直に『正解』の一言が言えないあたりが火村やなあ、と私は妙に感心してしまった。
「そんなんやったら俺が京都行ってもよかったのに」
「ああ、読み間違えたな。
 去年はおまえ、2月は2日少ないってテンパってたじゃねえか」
年末進行ほどでもないが、2月も出版業界にとっては鬼門である。2日少ない、その2日に泣く作家と編集がどれだけいることか。印刷会社時代からそのことはよくわかっていたのだが、判っているのと経験とは一味違う。去年風邪で倒れた最中に締め切りが来て、試験監督で動けないはずの火村を呼びつけたっけ。考えてみれば火村の、私への感情を知らなかったとはいえ、ずいぶん酷いことをしたものだ。
「今年は閏年やし、そんな苦しないわ。今、月刊誌の仕事少ないし」
「なんにしても筆が順調そうでほっとするよ」
キッチンに行きざま、ふっと投げかけられた言葉に私はちょっと詰まってしまった。
多分今のは火村の本音だ。
自分の方がどう見てもボロボロのくせに私を心配してたのか。示すように火村の両手が下げているスーパーの袋はいつもより重そうだ。食料を買いこんでくれたのだろう。
火村を真似て、自分の唇に触れてみる。友チョコなんてクソくらえ。
お菓子ボックスからチロルチョコを選んで「火村」と呼ぶ。
「どうした?」
スーパーの袋から我が家の空っぽな冷蔵庫に食料を補充する火村は相変らずのいい男だ。研究室は明日、チョコの山を築くに違いない。
「口、あけ」
火村にしては素直に口を開くのは、明日がヴァレンタインだからだろう。よしよしと、私は剥いたチロルを火村の口に落とし込んだ。
「ずいぶんと安い愛だな。作家先生」
「デパートでゴディバでも買えっちゅうんか?厭やで。
 それにこのチョコは食玩やねん」
「――謎かけか?――オマケに価値がある?」
相変らず回転は早い。
上目使いの解答に私は笑った。そこまで行けば、もう正解みたいなものだ。
「そう」
火村が私の手を取った。手首の内側にキスをされる。されるままにしておく。そう、それが正解だ。
「リボンを捲いてかまわないか?」
艶っぽい眼差しに精一杯真面目くさった顔で重々しく頷く。
「ええけど大問題がある。そのリボンが我が家にはないねん」
「――あるさ」
火村は一度閉めた冷蔵庫を開けて、シックなパッケージを取り出した。黒い包みにオーガンジーの赤いリボンが映える。間違いなく中身はチョコレートだろう。――いつの間に。
火村がいる以上、私が冷蔵庫を開けることはまずない。火村が帰ってから、私が明日、これを発見する算段だったらしい。危ないところだったといえよう。
パッケージからリボンを解いた火村は、それを私の右手首に捲きつけた。チョウチョ結びにする。
「――で、解いていいか?」
ガクッとこけそうになる。
いくらなんでもこの男は!
この状態でリボンなぞ解かれたら、美味しく頂かれるに決まっている。
まったく。そのことしか考えていないのか?
「もうちょい待ち。食事する間ぐらいは我慢せえや」
不満そうな火村の唇に、音を立ててキスをする。
「つまみ食いぐらいは許したるけど」
追いかけてきた唇に、文句は言わず、目を閉じる。
キスは、チョコレートの味がした。

了   (2008.2.15 彩)




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素材提供:Salon de Ruby