+ 恋と毒と相思華と 1 +


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 遠くで電話が鳴っている。
 二度寝した布団の中、二日酔いでガンガンする私の脳ミソは、それを耳鳴りと分類してしまったらしい。ずいぶんたってから、それが私の空耳でないことに気がついた。
 耳にてのひらを押さえつけて、そして離す。
 間違いなく、電話だ。しかも携帯ではない。
「うー。起きな」
 わかっていても、身体はクラゲのように力が入らない。
「はい、有栖川ですが」
寝起きで、やや掠れたバリトンが聞こえた。
 一歩出遅れた私の代わりに、居間にいた夕べの酒盛りの相手が電話を取ってくれたらしい。寝室から顔を出した私に不機嫌そうな視線をくれる。家主がいるのに電話に出たあたり、電話は相当しつこく鳴っていたようだ。
 寝室の扉にもたれかかって片手で拝むまねをしたら火村はひょいと器用に片眉を上げた。それで朝の挨拶のかわりらしい。あくびをしながら――なんせ10年の付き合いだ、遠慮などない――ぺたぺたとフローリングを歩いて行くと、火村は私に受話器をよこしもしない。「はい……はい……」と相槌を打ちつつメモを取っている。疑問に思いながらもぼんやりとつっ立っていると「助手を連れていっても構いませんか?」と電話の相手に確認をいれていた。
 ――おい。それは、まさか。
 どう贔屓目に聞いてもフィールドワークのお誘いだろう。
「なんで先生宛ての電話がうちにかかってくるんや?」
 にやにや笑いながら聞けば。
「人を酒の海に沈没させやがったくせに呑気なこと抜かすんじゃねえよ」
 悪態に似た返事がかえる。
 助教授は寝起きで少々機嫌がよくないらしい。
 いや、こいつの場合、目が覚めた次の瞬間から平常通りに冴えてるヤツだから――くやしいことに――エンジンがかかっていないとすれば、確かに夕べの深酒が原因だろう。私もついつい杯を重ね、火村同様、久々に酒の海に溺れた。さすがは米どころ・新潟の地酒である。美味すぎるのがいけない。取っておくつもりだった純米酒まで空けてしまったのは、良い年をした大人としてはさすがに少々飲みすぎだろう。後先見ない若者でもあるまいし。
 顎のあたりをボリボリと掻く火村は、さすがにムサイおっさんだ。もっとも私も同様なのだが。
「作家先生にもお呼びがかかるような現場らしい。柏原あたりの事件だ。来るか?」
「行く」
 取材旅行が終わったばかりの私に否やはない。火村もそれを知っていて、私に確認も取らず、先に連れていく許可を取ったのだろう。
「その前に味噌汁だな。チッ、あんなに呑むんじゃなかったぜ」
 まったくもって同感だった。
 酒を飲んでる最中には、不思議と思い出せない事実なのだが。


 土曜日であったのが良かったのか、悪かったのか。
 普段の火村ならば起き抜けの一本の後、すぐさまアートなベンツを駆ったところだろうが、昨日の酒盛りの余波でそれは無理だろう、何かを胃に入れねばならないという合意に達した。妥当な結論である。
 さすがに殺人事件が待っているだけあって炊飯器でご飯を炊くヒマはなかったようだ。トーストに味噌汁という変則的な朝食だった。
 シャワーを浴びてさっぱりした私は有り難くそれを拝む。入れ代わりに火村がシャワーを浴びに行った。猫舌め。こっそり笑う。
 トーストを齧りながら新聞にざっと目を通したが、それらしい記事は見当たらなかった。殺人事件は三面記事をにぎわせていたのだが、どれも臨床犯罪学者が出向く事件に思えなかったのだ。――いやいや、よほどでなければ新聞に猟奇的な内容は書きたてないだろう。犯人しか知りえない情報は当然ながら伏せられるだろうし、昨今の物騒な世情を鑑みれば、類似犯や愉快犯の登場を心配されてしかるべきだ。フィルターを外し、柏原という地理だけを探したが、やはり記事は見つからなかった。悪趣味な物言いになるが、出来たてほやほやの事件といったところか。
 濃い目に作った味噌汁を飲んでいると、酒で霞みのかかった頭も多少はすっきりしてきた。少なくとも殺人事件の捜査現場で酒臭い息を吐く顰蹙だけは回避できそうだ。
 それにしても。
「どうした?アリス」
 ヒゲをあたってさっぱりした様子の助教授を前に、この謎を尋ねても良いものか暫し悩む。胡乱な目つきで私を眺める火村に、日常の謎を自力で解くことは諦めた。
「火村、これ、どうやって作ったんや?」
 これ、とは味噌汁のことである。
 自慢にならないのだが、とあるやんごとない事情により、我が家に味噌はないのである。
 前回火村が来たときにはそこそこ残っていたはずで、当然昨日の火村の買い出しリストに味噌なんぞ組み込まれてはいなかっただろう。インスタントにしても、非常食をつめこんでいる棚にそんなものをおいた覚えはなかった。あったら前回の修羅場でとっくに食べている。しかも――贅沢と言わば言え――私は、乾燥味噌汁のあの粉っぽさが嫌いなのだ。これはその粉っぽい気配がしない。
「馬鹿アリス」
 火村は大仰な溜息をついた。首を振るジェスチャーにカチンとくる。おまえはアメリカ人か。
「大阪人に馬鹿言うな」
「いいか」
 無視しやがった。くそう。
「味噌をゴミに出すな」
 ……え?
「――カメラしかけてへんやろな?」
「おい。マジかよ?締め切り前の作家の奇行にはほとほと感服するね」
 なんだ。あてずっぽうか。
 しかし火村はほっとした私の気の緩みなんぞ吹き飛ばした。
「俺が前来たのは一月ぐらい前か?とにかく味噌はなくなるような量じゃなかったし、流しに捨てる選択も不可だ。――味噌は水じゃ溶けねえからな。それにさすがに窓から捨てるほどには非常識じゃないだろう、おまえは。だったらなにか癇癪でも起こしてゴミ箱に投げ捨てたのかと思ったんだが……」
 そのままズバリ、である。味噌汁を作ろうとしたはずが、出汁も取らずに湯に味噌を溶かしたあげく、飲めなかったそれに癇癪を起こしたのだ。すべては締め切り前の爛れた思考力のせいである。しかしそれでは私の質問への解答にならない。一体この味噌汁はどうやって作ったのだ?
「……答えてへんで?」
「おい、アリス」
 そこで火村は再び溜息をついた。ワザとらしい。
「おまえの家の冷蔵庫事情を俺のほうが知ってるってのはどういうことだ?」
 う。それは反論できんかもしれん。
「締め切り前に倒れかけた時、炊いたメシを冷凍庫に入れてやっただろう?」
「それに関しては感謝しとる」
 これを持ち出されると火村を拝むしかない。
 こう見えてマメな火村はラップに包んだおにぎりを、山ほど冷凍庫に入れておいてくれたのだ。実のところ私はその時の記憶が曖昧で、何か残ってないかと冷凍庫を開けて仰天した。すぐに火村の仕業と気づいて、京都に向かって拝んだものだ。――まさか。
「野菜庫に味噌汁の素を入れておいたんだがな。そっちは気づかなかったか。……いやまて、と言うことはおまえ、あれからまったく野菜庫を開けなかったんだな?」
「は……は……は……」
 火村はピクリと眉を上げる。
「まったく。この現代に、栄養失調で救急車に運ばれることだけは勘弁してくれよ」
「善処シマス」
「おや?作家先生は、いつから政治家に鞍替えしたんだ?」
「君かて知らんうちに准教授になっとったやないか」
 憎まれ口を叩きながら、残った味噌汁を飲み干した。
 しかし。
 わざわざ野菜庫に入れた、ということは、生味噌汁の素だったんだなと今更ながら気がついた。火村をこっそりと見る。乾燥味噌汁の素が好きじゃないと、火村に言ったことがあっただろうか?それにしたって私の締切前の生活を知り尽くしている火村がわざわざ乾物にしなかったのだ。これはやはり、何かの折にそういう言動をしたと見るのが妥当だろう。
「なんだ?アリス」
「いや、なんでも」
 とっさにうまい斬り返しができなかった。自分を知られていることが妙に気恥ずかしくなったのだ。おまけにこの友人ときたら口は悪いわ、性格はひねこびてるわ、散々なくせして、なんだってこんなところでだけとんでもなく甘やかしてくれるのだ。
 ふうん、と私を眺めた火村はすでに臨床犯罪学者の表情をしている。人差し指が、唇を撫ぜた。
「火村」
 こら、ここは事件現場やないと咎めると、どうやら無意識の行為だったらしい、さすがの火村もバツが悪い様子だった。行動を推理されるのはともかく心理を推理されるのは、友人としていただけない。
「行くか」
「おお」
 ジャケットを手にした火村は、そういえば新聞には目をやっていない。やはり新聞には載っていない事件なのだろう。
 私もジャケットを羽織って火村のあとを追った。


 マンションの外に出ると、ひやっとした風に混じって金木犀の香りがした。秋の匂いだ。なんとなく感傷的な心地になる。
 こんなことでもなければ、私はおそらく、次回作の構想にかまけてしばらく外へなどでなかっただろう。金木犀は、香りは強いが時期は短い。思い返してみればここ何年か、きちんとこの香りを嗅いでいないように思えた。おそらく私が繭をつむいでいる間に終わってしまったのだろう。はっきりと季節の移り変わりを感じさせる花で好きなのだが。
「近鉄沿線や言うとったな。電車で行くんか?」
「ああ。車で来ないほうがいいと、わざわざ言われたからにはそのほうがいいだろ」
 現場近くは道が細く、パトカーでさえ駐車するのに難渋したらしい。しかし捜査一課が電車で殺人事件の捜査に赴くわけにはいくまい。近くのお宅の駐車場でも借りたのだろうか。
 民家の駐車場にパトカー。
 借りられるほうからすれば、なかなかぞっとしない光景だ。
 勿論、民間人の我々は、警部殿の忠告にしたがって電車を使うことにしたのだった。

 JRを環状線で鶴橋まで出て、そこから近鉄線に乗り換える。
 現場近くの堅下駅までは7駅ほどあるらしい。急行、あるいは準急が出ていないかと思ったが、あいにく普通しか停まらないようだ。急いた気持ちとは裏腹にのんびりと20分ばかりかかることとなった。
 奈良線と大阪線が行き交うこの駅には結構な乗降客がいる。奈良や三重に遊びに行くのだろう、浮かれたようすの人間の中で言葉も交わさず、黙りこんだ我々は異質だろう。あからさまではないがやや遠巻きにされて皮肉な気分で思う。ホームに滑りこんできた小豆色の車体に乗りこんで、やっとその違和感は薄れた。普通列車だから遊びに行く人間は乗らないのだ。
 伊勢方面に向かうのに使う路線だ。私にも馴染みのないわけではない。このあたりは線路に民家が迫っており、特急であれ、ゆっくりと通りすぎる。まじまじと注視したことなどなかったが、普通電車であれば更にゆっくりと進むため、長屋のようなアパートが密集する様とアーケードの商店街などがよくわかる。下町という風情だった。日当たりは悪そうだが、通勤には便が良いのだろう。
 窓の外は、まだ大阪の中心地に近いというのにところどころに田んぼが見える。といってもどれも広いものではない。線路に近く、かつ形状が不定形なために宅地には出来なかったのだと思われた。宅地であったところを取り壊し、建築基準法の関係で新しくは建てられなかったのかもしれない。そろそろ稲刈りは終わっていて、稲穂が逆さに下げられている。近くの民家で、自分の家の分の米だけを作っているのかもしれなかった。水などはどうやって引いているのだろう。水道を使うには、結構な量がありそうだし。
 ちらと隣を見やれば、火村は何を考えているかわからない無表情だ。彼の精神が静かに緊張していることがわかる。私は堅下駅に着くまでなにも口にせず、沈黙にまかせた。何か突飛な推理を口にするのは事件現場にはいってからで十分だろう。
 そうして降り立った堅下駅は、大阪だというのになんと、葡萄の産地らしい。駅前のロータリーには「葡萄狩り案内」と書かれた臨時テントが鎮座している。
 駅前から右手、つまり奈良方面は山を開いたらしく切り立った高台になっており、見上げればぶどう棚が広がっていた。棚には軽く紅葉した葡萄の葉が茂っており、白い袋が数多くぶら下がっている。巨峰だろうか?
「おい、アリス」
 凶悪な呼び声に思わず口元に笑みをはりつけて火村を振り返った。ヤバイ。目が笑っていない。
「葡萄狩りに来たんじゃねえんだぜ」
「わかってるって」
「どうだかな」
 火村の目は思いっきり信じていない。
 もちろん、早く終わりそうなら少しぐらい……、と思っていたが。
 私は慌てて、駅から左手に向かう火村を早足で追いかけた。

 ――いっつも思うが、コンパスが違うのか?くそう、なんですぐ追いつけないんやろう。



 
 
 1.作家の週末
 2.犯行現場
 3.証言者-1
 4.証言者-2
 5.証言者-3
 6.証言者-4
 7.真相
 8.犯人はあなたです
 9.相思華
  エピローグ
 
 
 

 

**下見も調査もナシに書いたバカです。乗り換えチガウ〜(涙)。
**色々、実際とは相違がありますです。直そうと思ってたんだけどムリだったよう。
**再度読んだけど、どう考えてもweb向きじゃないなぁ……。

素材提供:空色地図