+ 恋と毒と相思華と 5 +


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 管理人の部屋を辞した後、2階に上がる。すぐ目の前が間田の部屋だった。そこへ行くのかと思えば、火村は奥までズカズカ進む。205号室、吉岡の部屋の前で立ち止まった。
「吉岡さんが、なんや関係あるんか?」
 どうせ答えてくれないだろうと思いつつ尋ねたが、やはり答えてはくれないらしい。
 鮫山を筆頭に訪ねたところ、吉岡博人は快く迎え入れてくれた。
「なんや、今回は大勢ですな」
 矍鑠とした、ご老人である。胡麻塩頭は短く刈られ、目元に愛嬌があった。ちなみに身長は瀬沢よりも低いようだ。ううむ、困る。
「ま、むさいところですが、どうぞ」
 吉岡の部屋も先刻の管理人の部屋と同じほどには広さがあった。どうやらこのアパートは、1号室と5号室が1LDK、2号室と3号室が1DKらしい。
「こんな近くで、こんな物騒なことが起こると、世の中物騒やとわかっとっても衝撃を受けるもんですな。――刑事さん、瀬沢君を殺した犯人は必ず捕まえたってください」
 我々は一斉にうなづいた。吉岡も頷いて和室に通してくれる。普段は布団を敷きっぱなしなのだろう、それを3つに折ると、吉岡はその上に腰掛けた。我々には座布団を勧めてくれる。どうやら座布団は4つしかないらしかった。
「女房がおったらこんなことは許されんところですがな」
 非常に茶目っ気のある性格らしい。と、待てよ。吉岡は確か、耳が遠いとか聞いたような。少々声が大きめに思えたが、受け答えはしっかりしている。耳が遠いとはいってもさほどではないようだ。
 吉岡老人は、大手機械メーカーを退職した後、11年前に奥さんと死別、その病気療養に思ったよりお金がかかったため、8年ほど前からここに住んでいるとのことだった。
「急に貧乏になったものですから越してくるときはなかなか割り切れないものがあって、踏ん切りはつかなかったものですが、住めば都、というんは本当ですな。皆、貧乏ですからかえって見栄なんかどこぞに振り捨てられて、気楽ですよ」
 プライバシー不可侵ですしね、とつい茶々を入れると本当に皆、そのあたりは口が堅い、と笑った。
「それに、このアパートに住んでるのは皆、孤独な人ばかりですからな。友人が訪ねてくるというのもないし、――自慢にもなりゃしませんが――親戚もおらん。静かな人ばかりですよ」
 火村が口を挟む。
「瀬沢さん以外は?」
「ああ、尋ねて来とったお花のお嬢さんですな。でもそんなしょっちゅう来るわけでもないし、瀬沢君本人は、いたって静かな性格でしたよ。日枝さんの方針でしょうな。こんな古いボロアパート、賑やかな人が入ったら五月蝿てかなわんやないですか」
 ごもっとも。
「日枝さんなんか、刑事さんから見たら賑やかに見えるでしょうな?でも、あれでいて井戸端会議ではもっぱら聞き役なんですよ。プロフェッショナルなんですな。大家やから住民のこと、よう知っとるから喋ったらあかんのや、って言っとりましたわ」
 人は見かけによらない。
「では、お尋ねします。最近で瀬沢さんを見かけたのはいつですか?」
「ううむ、あんまり会わんからなあ。4日前か5日前に多分スーパーで見たのか、ゴミ置き場で見たとか、そんなもんだ」
「同じアパートですが、会わないものですか?」
「刑事さん、自宅ですかね?」
 笑みを含んだ声で逆に訪ねられて、森下はいえ、と短く答える。
「アパート住まいやったらとなりの部屋の人と最近挨拶したの、いつか覚えてますかな?」
 声も出ないようだった。都会では、ままある話である。
「じゃあ、瀬沢さんの最近の様子をっていうのもわからないですね……」
「まあ、ここの住人はみんな、あんまり他人に深入りするタイプじゃないですからな。やから瀬沢くんと間田さんが付き合い出したときには皆びっくりしたもんだ」
「――有名だったんですか?その、瀬沢さんと間田さんとのことは」
「まあなあ。聡君いれて3人で夕方、散歩しとるとこなんか見ると、もうほんとの親子みたいやったよ。間田さんが風邪のときなんかは瀬沢君が聡君を託児所連れていったりしとったし。ほんとに似合いでな。……間田さん、可哀想やなぁ」
 吉岡は嘆息する。二人が別れたことは、まだ噂になっていないらしい。いや、吉岡の言に依れば管理人の日枝はそういうことを言わないタイプらしいし、当人たちにしても公にするような話ではあるまい。私にしたってそういうことがあれば……いや、最近はとんとないが……誰かに話したりは……いやいや、大抵フラれて火村に泣き言を言いにいっていたか。酒瓶つきで。
「――話がそれましたな。最近の瀬沢くんの様子ですが、どうもなにか元気がない、思いましたよ。上の空、いうか。何故かまではわかりませんが」
 それはわかっている。詩織嬢と間田のどちらをとるかで悩んでいたのだ。
「夕べ、物音は聞かれなかったということですが」
「老人ですからな、朝早い代わりに夜も早いんですよ。7時に食事、8時に風呂、9時には就寝、です。昨日は金曜日だし、ビール飲んで寝てたら物音なんてわかりゃしません」
 苦笑めいて、アリバイの不在までさらけ出した。
「今朝の事を教えてください」
「老人の朝の楽しみゆうたら、朝刊に決まっとります。隅々まで読んでたら、突然悲鳴が聞こえましてな。それが住民の生活には不干渉っていう不文律なんか吹っ飛ぶぐらい、せっぱ詰まった悲鳴でしたわ。それで外に飛び出したら、瀬沢君ちのドアが開いとる。慌てて覗いたら、瀬沢君が倒れとりました。時々瀬沢君ちに来てたお花のお嬢さんがその隣で腰抜かしてて。ああ、すぐ死んどるてわかりましたよ。背中から血い出とって、それが心臓の場所でしたでな。右か左か、とっさにわからんかったけど、よく考えたらあれはまさしく心臓一突きってやつですな。気がついたら私も悲鳴あげとりましたよ。管理人さんが飛んできて、ちらっと中見てまた腰抜かしとるの見たら、こっちは冷静になりましてな。でも全然冷静じゃなかったんでしょうな。死んでる思うてたのに119番したんですから」
 日枝の説明とほぼ同じだ。
「なにか、……202号室を覗いたときに、なにか気づかれたことはありませんか?」
 火村が口を挟む。どうやら火村は、それがさっきから気になっているらしい。
「なにか言うても、……ああ、和室にヒガンバナがありましたな。死人花って言うぐらいだから不吉や思いましたけど」
 ヒガンバナの別称に軽く目を開く。ヒガンバナは火葬が始まる近代までは墓場に植えられた。そのための別称だ。田畑と同じで、ネズミ、モグラ除けのためだ。
「他には」
「やな人ですな。言わせたいんですか」
 含みのある吉岡の言葉に更に目を開く。
「和室に、万札が転がっておりました」

「瀬沢君が、何か悪いことをしたのかどうか、私にはわかりゃしません。女性にも、子供にも、この老人にさえ優しい青年でした。あんなやさしかったら生き辛いやろなあ、思うてました」
 吉岡老人の言葉は、淡々としている。
「でも、殺されるのは酷い、あんまりですよ。やから刑事さん、犯人は必ず捕まえてください」
 我々は無言だった。火村はまだ、なにやら気になることがあるようだ。
「吉岡さん、包丁を見せていただけますか?」
「お安いご用です」
 キッチンに通される。シンク下に下がっていたのは、意外と立派な包丁三本セットだ。出刃、菜切り、果物ナイフだった。勿論どれも、刃が潰れていたりはしない。果物ナイフを万能包丁代わりにしているのか、それだけはくすみがなかった。
「死んだ連れ合いが嫁入りの時に関の刀鍛冶のところで誂えたそうです。有効利用しているとは言い難いですが……」
 横目で見れば火村は何事かを考えている。何が気になっているのだろう。私にはさっぱりわからなかった。

「間田優芽のところに行きますか?」
「行かずに終わるつもりですか?森下さん」
 火村に冷たい視線を返されて、森下は今日何度目かへこんだようだった。
 しかしすぐさま復活するのが彼の得てである。こちらへ近づいてきた。
「何考えてるんでしょうね、火村先生は」
 おいおい、それはあんまりだろう。第一聞こえてるし。私は不機嫌になった火村を横目で見てつい吹きだした。
「さあなぁ。秘密主義やからなぁ。俺にもようわからへんわ。ごめんしたってな、森下さん」
「いえいえ、勉強になりますし、ファイトが湧きます」
「――なんのファイトだよ」
 火村のぼやきが聞こえた。
 そりゃ、火村を出しぬくファイトやろ……とツッコミいれるとなぜだか二人とも棒を飲んだような表情をする。
 なんでだ?
 後ろで珍しく鮫山警部補の吹きだすような笑いが聞こえた。こらこら、ここは殺人事件の現場なのだが。
 それにしたっていつも冷静な鮫山が吹きだすほどに私はなにか変なことを言ったのだろうか?

「鮫山警部補、頼まれていただけますか」
 201号室前で火村は立ち止まって言った。
「なんでしょう」
「篠水詩織の両親のアリバイを調べてください。多分、すぐ出ると思うのですが」
「手配します」
「それから……」
 火村は警部補に近づき、なにやら耳打ちしている。なんだなんだ?一体なんだ?
 というか、なぜ我々4人しかいないのに火村は秘密主義なんだ?
「おい、火村」
「後で言う」
 一言だ。助手のはずなのに無視される私の気持ちを、この男は考えたことがあるのか?くそう。出しぬいてやる。
「森下さん」
 ちょいちょい、と呼んで耳元に囁く。
「なんですか?」
「二人で出しぬきましょう、火村を」
「ええええ?」
 こそっと言うと、目の前でぶんぶん掌を振られた。
「無理無理、絶対無理ですよ。火村先生に殺されます」
「なに言うてんです!そんな気弱でどうするんですか。俺らやって持ってる情報は一緒なんやし、それに結構ヒントも出てるやないですか。さっきの話聞いたら篠水さんの関係者潰してけばいいだけです。多分、篠水さんは202号室入った時に、誰かの何か痕跡見つけたんですよ、きっと」
「あ。そっちですか……」
 がっくり。肩を落とす森下に、不思議になる。
「森下さん?」
「アリス」
「ひゃあ?!」
 背中から羽交い締めに拘束されて変な声が出てしまった。なんなんだ、この男は。
「作家先生。悪巧みは原稿の中だけにしとけよ。おまえのガラじゃねえんだから」
 耳元で喋るな!くすぐったい!
「ああ、俺はどこぞの助教授と違って根性ひねこびてるわけやないしな。心配せんでもまかしとくわ。ところでこの手はなんや?」
「虫除け」
「は?」
 はて?面妖な。ジャングルではニコチンを靴の底に浸して蛇除けにすると聞いたことならあるが。どうもさっきからよくわからない単語が飛び交っている。眉をひそめていると森下の溜息が聞こえた。
「見事にファイトをそがれました……」
「鮫山警部補、頼んだこと、よろしくお願いします」
「かまいません。ソレは、ばんばんしごいてやってください」
 離れた鮫山を目で追って、篠水詩織の両親にどうして目をつけたかという疑問よりさきに、とある疑問が浮かんだのだが、火村が答えてくれるとも思えない。裏付けるようにおんぶお化けをやめた火村は勝手に201号室のチャイムを押している。私はパタパタとジャケットをはたく。まだ背中のあたりからキャメルの匂いが漂っている。
「火村先生?いいんですか?」
 森下が訊くのは、鮫山がまだ戻ってこないからだろう。無邪気に尋ねる森下に心の中で「あああ、ごめん」と手を合わせた。これは多分、嫌がらせだ。
「ああ、もちろん。鮫山警部補のお墨付きもいただいたことだし、森下刑事にはとりあえず、重要人物の再聴取を一人でしてもらうかな」 
 間田優芽はどうやら先刻の事情聴取では、協力的な有様ではなかったらしい。それを森下にやらせるか!
 事件現場のくせにやたらとイヤミな笑顔で臨床犯罪学者は嘯いた。


 

 
 
 1.作家の週末
 2.犯行現場
 3.証言者-1
 4.証言者-2
 5.証言者-3
 6.証言者-4
 7.真相
 8.犯人はあなたです
 9.相思華
  エピローグ
 
 
 

素材提供:空色地図