+ 恋と毒と相思華と 8 +


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 篠水が詩織嬢の待機する部屋に向かったのを見届けてから、火村は部屋を出、階段を降りた。裏にまわり、畑にしゃがむと片膝をつく。眼差しは暗い。
「どうしたんや?」
 私は慎重に問いかけた。火村はひどくピリピリしていた。鮫山も森下も声をかけることさえ出来ない。二人の無言の圧力を受けて私は猛獣使いにでもなった気がした。
「あら、先生方」
 一階の掃き出し窓が開いた。日枝が顔を覗かせている。
「カボチャ泥棒ですか?」
「立派なカボチャですね」
 応えない火村の代わりにお愛想を言う。管理人はころころと笑う。
「九重栗なんよ」
 なんのことかと思ったが品種名らしい。誇らしげに言うあたり、高級品種と見た。
「英都の先生が持ってるのなんて、ちょうど食べごろや思います。底がオレンジになっとるでしょ?」
「煮物にされるんですか?」
 火村が、感情の薄い声で尋ねる。
 答えようとしたらしい日枝は、何故か押し黙った。
「あなたは賢明だ。私が捲いた情報にも、興味のない振りを通した」
 薄い唇が、淡々と言葉を連ねる。まさか、と私は日枝を見た。管理人は黙ったままでいる。
「私は住人たちに、包丁を見せていただきました。どの家も、包丁はあった。けれど犯人は、新品の包丁を使っていない。ならば答えは一つ。犯人の家には包丁が2本以上あったということです。
私はこの庭を見てから、ずっと気になっていた。あの、包丁。あなたの家のあの薄い軽い包丁でこのカボチャを、切れますか?」
「英都の先生。なんでこのアパートに犯人がおったなんて言い切るんですか?どこかから来たって」
「犯人は、返り血を浴びている」
 遮るように、畳み掛けるように火村は言った。
「202号室で返り血を落とした痕跡はない。犯人は自宅で血痕を落としたはずです。さあ、お尋ねします。このあたりに車を止める場所は、ありますか?ちょっと車を停めて殺人を犯す?ありえません。警察車両ですら、苦慮したのです。犯人はこの近辺の住人です」
「この近所の人みんなにそやって言うて聞き込みしはったほうがええですよ」
「その必要はないのです。犯人は非常に不可解な行動をしている。何が不思議かわからないようですね。では言います。このアパートは、壁が薄い。202号室で、不審な物音がした場合、201号室の住人が様子を見に来ることが必至だった筈です。何故なら201号室には被害者・瀬沢の恋人が住んでいたからです。――ええ、実際には、誰も見に来ませんでした。何故なら間田は仕事に出かけていたからです。しかし考えてください。201号室には電気がついていました。聡君がテレビを見ていたからです。留守でないのは一目見ればわかりました。それなのに犯人は犯行に及んでいる。何故なら犯人は――間田と瀬沢が別れていて、たとえ大きな物音がしたとしても間田が様子を見に来ないのを知っていたからです」
「うちがなんで瀬沢さんを殺さなならんのかな。間田さんが、仕事行く前に殺してったゆうて考えるほうが普通や思うのんやけど」
「――ああ、本当に壁が薄い。それともベランダからなら聞こえるんですか?
あなたは大家で管理人だ、上階が五月蝿ければ今いる部屋を移っただろう。201号室に住んでいる間田親子が静かなことはそのことからもよくわかる。ところが昨日ばかりはそれが裏目に出てしまった。寝ている子供を残したために、間田は、そっと家を出たんだろう。帰ってきたときもおそらくそっと帰ったはずだ。だからあなたは間田がずっと部屋にいたと思い込んだ。
間田の在室時刻がかろうじて死亡推定時刻にかかっていたのはあなたにとって幸運だった。
だが、それでも間田が殺人に関わった可能性はないんです。何故なら201号室には聡君がいた。――ああ、あなたの言いたいことは、わかる。間田が子供を愛していたから隣室で殺人を犯さなかった、なんておためごかしを言うつもりはない。問題は、聡君が証言者になりうることです。聡君が風邪で寝ていたとしても、隣りの部屋との壁は薄い。物音で目が覚める確率は高い。そこに帰って、返り血を落とすのは非常に危険だ。子供に嘘をつかせつづけること難しい。まして子供の口を噤ませつづけるのはもっと難しい――これはあなたも否定しないはずだ。だから間田が犯行を行うならば、子供が隣の部屋にいる状態では殺人を行わなかったでしょう。実際、聡君は我々に証言をしています。そしてその証言で、瀬沢が9時までは生きていたことがはっきりしている」
「やからって、無茶苦茶言うんね。なんでうちがそんなこと言われなならんかわからんわ」
 日枝は非常に落ちついていた。私は火村を見た。喉がカラカラに乾く。論理が詰んでも、日枝に折れる様子はない。日枝の足元を崩すには何かが足りないのだ。晒されていないカードがある。それがおそらくジョーカーだ。その一枚にして形勢が変わる、そんな印象を受ける。
 日枝は落ち着き払っている。自宅を探したとしても、凶器の包丁は出てこないのだろう。
「……さて、誰が犯人かは措いて、凶器の包丁がどこにあるのか考えてみましょう」
 火村はそれも、予測しているらしい。いったいどこだというのか。それを示すものが、あっただろうか。
「犯人は非常に冷静です。警察がどこを捜すか知悉している。アパート内には隠さないでしょう。明日から近くの川を攫うことになっています。けれど見つかるとは思えない。それぐらいなら犯人は山に入って埋めることを選ぶでしょう。……私はそのどちらもない、と見ています。犯人はおのれの目の届く範囲に凶器を隠したと考えます。――以前と、同じように」
 最後の言葉の意味を問う前に、火村は淡々と続ける。
「警察が踏みこむのを躊躇う場所。そして踏みこんだとしても、通り一遍の捜索しか行わないところ。犯人は足跡を、そして掘り起こした形跡を、うまく工作する自信があったのでしょう」
 日枝さん、と火村は管理人に呼びかけた。
「凶器が、隠されている可能性があります。収穫間際で申し訳ありませんが、あの田んぼの中を探させてください」


 森下が走る。表に駆けて行ったかと思えば捜査員たちをひきつれて、稲穂のゆれる田んぼの中に分け入った。
「あれまあ」と日枝は溜息をつく。鮫山は舌打ちをしていた。少なくとも日枝がうんと言わないうちにこれはマズイだろう。火村を見た。火村に表情はない。冷静に言った。
「少なくとも、この田の真ん中から凶器が出てきたとしても、それで誰が犯人とは特定されない。血痕も、指紋も残されていないと推測します」
 私は一階の、日枝の部屋の物干しを見た。青い7分袖のカットソーとグレイのスカートが翻っていた。今日は天気が良い。もう乾きかけているのかは色味からは知れない。犯人は冷静だと火村は言った。包丁を携えて瀬沢の部屋に向かったのだとすればそのときの服に黒を選ばないところが恐ろしかった。黒ならば、洗ったとして残った血痕を見逃す可能性があるのだ。何度も手洗いし、最後に洗濯機にかけているのだろう。よく見れば、下着ならばともかく服を干してあるのは日枝の部屋だけだった。それもまた、火村の疑惑を裏付ける元になったのだろう。私の視線を見て、日枝はそっけなく言った。
「女性の服から血液反応が出て、それで殺人犯やと言うんなら、12 才以上の女は全員、殺人犯になりますのんね」
 非常に冷静だ。火村が口を挟む。
「瀬沢さんはO型です」
「あれまあ。A型やったと思いますよ。私もですけど」
「DNA鑑定で男の血か女の血かはわかります」
「拉致疑惑のときテレビでやっとったけど、ちゃんとした血やないとわからん言うてましたよ」
 この管理人は、おそらく夜中中部屋を掃除している。返り血からの血痕の一つも残さぬように。火村はふっと田んぼのほうに視線を流す。青い服を着た集団が中央あたりの稲の1束を掘り返す有様に目を眇めた。
「何かを埋めた形跡があったようですね」
 私たちは無言になった。
 やがて秋晴れの青空のもと、凶器の包丁が発見された。日枝の部屋にあったものよりも、もっと刃の厚い包丁だった。

 

 


 
 
 1.作家の週末
 2.犯行現場
 3.証言者-1
 4.証言者-2
 5.証言者-3
 6.証言者-4
 7.真相
 8.犯人はあなたです
 9.相思華
  エピローグ
 
 
 

素材提供:空色地図