+ 恋と毒と相思華と 3 +


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 現場の真下、102号室はさすがに埃っぽい様子だが、思ったよりは酷くない。聞けば管理人がざっと掃いてくれたそうだ。間取りは瀬沢の部屋と同じで1DKだが、あの部屋のヒガンバナの圧迫感が消えただけでこれほど違うのかと認識させられた。照明器具はついていないために日中であってもどこかしら薄暗い。和室にカーテンがついていないため、そこからさしこむ光が変色した畳を暖かい色に染めていた。ガラス窓の向こうにはここの住人が作っているのだろう、3畝ほどの小さな畑があった。ネギやカボチャが細々と植えられている。塀代わりの生垣の向こうには台形をした、猫の額ほどの小さな田んぼ。まだ刈り入れの済んでいない黄金色に揺れる稲穂のまわりを赤い色が縁どっている。それに惹かれて窓を開けた。隣に立った火村に言わずもがなのことを確認する。
「ヒガンバナや」
「ああ」
「上の、あのヒガンバナはここのかな」
「バケツ2杯分持って道を運んできたんじゃなきゃ、そうだろ」
 風に流れて、金木犀の香りがした。ヒガンバナとは微妙に時期が違うはずなのだが、今年は残暑が長かったために揃って咲くという温暖化を愁う事態になっている。金木犀の匂いがかききえる。キャメルの匂いに視線を流せば隣の火村は、早速一服つけている。堅下駅前以来のそれに、心底美味そうに煙を吐いていた。しかし状況を省みないやつである。私も人のことは言えないのだが。男性4人の圧迫感を減ずるために窓は少し開けたまま、立ちあがって我々を迎えた篠水に会釈した。挨拶の前に窓際へ急行し煙草に火をつけた火村にあっけにとられたような表情でいる。
 篠水詩織は、いかにも大切に育てられたお嬢さまという雰囲気を漂わせた女性だった。青ざめてはいるが、それでも可憐さは損なわれない。ときどき我等が母校で教鞭を取っている火村を急襲するのだが、その折りにみる今時の女子大生とはどうも一線を画している感がある。色をいれていない、重いほどに見える黒髪がそれに一役買っているのだろう。着ているものも千鳥格子のツーピースといういでたちで、かっちりした印象を受けた。そういえば生け花の展示会の下見に行く予定だったのだなと納得する。肩先まである黒髪を結い上げ着物を着れば、老舗の温泉旅館の若女将にそのままなれそうだった。
「申し訳ありません。ご気分は大丈夫ですか?」
 森下の、挨拶代わりの謝罪を前に詩織嬢は蒼ざめたまま頷いた。こちらに目を移し、ついで鮫山に尋ねるように見る。その目線で彼女の事情聴取を行ったのが鮫山だとわかった。視線に答えるように鮫山が一歩前に出た。
 ……そりゃあ、怪しさ満点の二人組だが。アルマーニの森下と併せれば、誰一人として刑事には見えないだろう。
「こちらは英都大学助教授の火村先生とその助手の有栖川さんです。捜査の手伝いをして頂いています」
 紹介されて詩織嬢の不審げな眼差しは劇的にやわらいだ。どうやら助教授の名称が『効く』人種らしい。しかしそれは一瞬で、また怪しんでいる視線に変わる。やはりもう少し堅い服装で来るべきだったかと思ったものの、よく考えれば私がスーツを着てきたとしても、おおもとの火村の服装が改まるはずもない。無駄なことはしないに限る。
「先刻と同じ質問をすることになるかもしれませんが、ご承知ください。それから……なにか思いついたことがあれば遠慮なくおっしゃってください――森下」
「はい」
 近寄ってきた森下に場所を譲り、鮫山は後ろに下がる。
 ――おやおや。
 私は状況も忘れてあやうく吹きだしそうになった。これは、先刻の事情聴取と同じ事を聞くわけだからおまえやってみろという鮫山の親心であろう。森下の、生真面目に作ろうとした表情の裏に気負いを見取って私は火村の袖口を引いた。部屋の端、柱のあたりまで身を下げる。
 火村が傍にいてはやりにくかろうという私からの親心だ。
 森下は形式どおりの質問からはじめる。氏名から始まって住所は中央区、森ノ宮のあたりだった。交通至便でありながら閑静な一等地だ。詩織嬢はO女子大に在籍していた。これまた絵に描いたようなお嬢様だった。
「アリス……」
 じっと森下を見守っていると火村が私の耳元に身をかがめた。
「授業参観だぜ」
 私は吹きだすのを堪えるために下を向かねばならなかった。まったくこの助教授は!
 黙って聞け。
 火村のわき腹に軽く肘を打ちこむ。
 その間にも森下の授業……もとい、事情聴取は着々と行われていた。

「被害者とは婚約される予定だったと聞きましたが」
「はい、1ヶ月後にお披露目の予定でした」
「それに関して反対する方はいらっしゃらなかったんですか?瀬沢さんは破門されていたとうかがっています」
 少々踏みこんだ質問にも詩織嬢は気後れすることなく森下を見上げる。ふむ、と思う。お嬢様が刃物を持ち出すとは思わないが、人を殺す時に角度を気にする余裕はあまりないだろう。やはり犯人は被害者よりも背の低い人物に思えた。
「彼の才能が確かだということは、篠水流に所属する人間皆の一致した意見です。恋人の欲目ではありません。父や母も認めておりました。家の車を使ってここへ来ても咎められたことさえありません」
「――不満を抱いていた方は?」
 詩織嬢は溜息をついた。気が重いらしい。さもありなん。身内を疑わなくてはならないのだ。
「先刻申し上げた通りです。事務局長の三橋さん親子は確かに反対しておりました。だからといって彼を殺すなんて……」
 少し疲れたように額を押さえる。非常に大人びた物言いだ。そして思ったよりも取り乱していない。華道家元の娘だからと言ってしまえばそれまでだが。
「そのほかに瀬沢さんとトラブルを起こしていた人間に覚えはありませんか?」
「ありません」
 これは即答だった。
「最後に、瀬沢さんに会ったのはいつですか?」
「一週間前です。土曜日でした」
「そのとき何か、変わったことは」
「特に、気づきませんでした。風邪気味やって言ってましたけど。とくにひどいふうじゃなかったです。ちょっと元気がないかな、とは思いましたけど」
「――金銭に関するなにかは聞いていませんか?」
「先刻おっしゃっていた件ですね。――いいえ。彼は金銭に執着する人ではありませんでした。先刻、改めて考えて、刑事さんのおっしゃているのが、彼が誰かを脅して50万円を手に入れたということを疑っている、ということだと思ったんですけど……それはおかしいんじゃないですか?犯人がそのまま50万円おいて逃げるやなんて」
 恋人への金銭疑惑に興奮してきたらしく、詩織嬢の口調がはじめて崩れた。それが素なのだろう。落ち着けるように森下は小さく咳払いする。に、似合わない。
「何があったかはわかりません。ですから出来るだけのことを教えてください」
 詩織嬢は小さく首を横に振った。これ以上は思いつかないと言うことだろう。森下も小さく頷いた。
「これは参考までにお聞きしたいのですが、ヒガンバナの花言葉は何ですか?」
「わかりません。――生け花に使う花ではないので」
「……生け花に使うことは、ないんですか?」
「ありえません。毒のある花ですし、飾るには名前が不吉です。嫌がる人が大半でしょう」
 ああ、思い出した。ヒガンバナの球根には毒があって、だからこそネズミやモグラ除けのために田畑の畔に植えられたのだ。それではますますあの和室のヒガンバナの謎が解明されないではないか。
「最後に、これはみなさんにお尋ねしているのですが、昨夜の8時から12時までの行動を教えてください」
「昨日は学校が終わってから、一旦家に戻ってそのあと阪急に――ええ、梅田店です、服を見に行きました。結局なにも買わずに家に帰りついたのが7時半頃やったと思います。近藤に聞いてくれたら、業務報告書をつけてるし正確やと思いますけど。え?近藤ですか?うちのお抱え運転手です。今日もここへ連れてきてもらいましたけど……ああ、一旦帰しましたっけ。――ええと、それから十季子さんと夕食を食べて――そう、十季子さんと言うのは内弟子です。他の内弟子はみんな、展示会の準備で出払ってましたから――8時半頃には自室に引き上げました。父は展示会の準備で10時すぎでしたっけ、帰ってきたのは。内弟子の人たちも一緒に帰ってきました。え?ええ。挨拶はしましたよ。うち、厳しいんです。そういうことは。母は遅くなるから、挨拶はしなくていいって言われてました。たしか県議会の先生のところの秘書の家に行くとかで。だからそれから部屋に戻ってずっと一人でいました」
 アリバイは、こちらも微妙だった。部屋に一人でいたと言っても証明する人はいない。しかし、家族だけで住んでいるのとは違って、彼女が家を出入りするには人目がある。横目で見れば、火村はとくになんの表情も浮かべていない。平静に詩織嬢の話を聞いているようだった。


 森下が火村を見た。何か訊きたいことがあれば、ということだろう。火村はヒョイと眉を上げる。何故か鮫山を見た。鮫山は咳払いをして口を挟む。
「申し訳ありません。あと一つ。今朝、瀬沢さんを発見したときのことを教えてください」
 あ、と思い当たる。森下を見れば非常に焦った顔をしていた。これも基本の質問である。おそらく後ほど、鮫山から叱責されることだろう。トホホという様子で肩を落としているのが笑いを誘った。――笑うわけにもいかないが。
「はい、ええと、今日は9時にここに来る約束でした。道が込んでるかって思って少し早めに出てもらったんです。それで着いたのが多分、8時45分とか、そのくらいやったと思います。ちょっと早いけど、彼も時間より早めに用意する質だし、かまわないかと思って部屋に行きました。チャイム鳴らしても出ないっていうのも変だし、あれっと思ってドアノブひねったら開いたんです。後はもう、何がどうなったか、よく覚えてません。悲鳴あげたんです。彼が倒れてて、死んでるって思いました。駆け寄ったのかどうかも、ちょっと覚えてません。気がついたら救急の人がいました」
 火村が詩織嬢に問い掛ける。
「和室のヒガンバナについては、すぐに気づきましたか?」
「あ、はい。はじめ血かと思ってびっくりしました」
「DKから見える位置に、50万円がおいてあったようですが、それはすぐに気づかれましたか?」
「……ちょっと、覚えていません。ヒガンバナのほうで動転してたので」
「誰が、なんのためにヒガンバナを置いていったと思いますか?」
 詩織嬢は首をかしげた。首を横に振る。火村も特に、拘泥しなかった。わかっていたら先に言っていただろう。
「瀬沢さんが、篠水流に入ったきっかけはなんですか?」
 確かに言われてみれば、男性で生け花を志すのは珍しい。詩織嬢はやっと笑みらしきものを浮かべた。口調がやや幼く、やわらかくなる。
「彼、小さいころに両親が亡くなってるんです。お姉さんに育てられて、自分でシスコンだって笑ってた。そのお姉さんがお花好きなんだけど買うお金なんて余分にない生活してて、それで高校のクラブ活動で華道部に入ったんです。学校から補助が出て、タダだから。――講師に行っていたのがうちの父なんです」
 家元自ら講師に行くというのは不思議であったが、よく考えればそう不思議でもない。なるほど、と思う。今は茶道であれ華道であれ、どんな流派も人の獲得が死活問題だろう。わざわざ家元が高校のクラブ活動に出たとしても、長い目で見れば流派の弟子獲得競争に大いに貢献するはずだ。
 そして瀬沢の才能うんぬんにも納得がいった。高校のクラブ活動だから、彼女の父も瀬沢の経済状態は把握していたはずだ。それにもかかわらず篠水流に入れたのだから、なんらかの減免措置をとっても瀬沢は欲しい人材だったといえる。
「彼が高校3年のとき、うちの父が――工場に就職するぐらいなら、篠水の内弟子にならないかって言って、それから兄妹みたいに育ちました。――今も、彼にとってはその延長だったかもしれません」
 自嘲気味に述懐した。
 瀬沢が高校を出たときといえば、彼女は10才ぐらいだろう。兄妹みたいに、というのはあながち冗談でもなさそうだ。彼女からは瀬沢への執着を感じるが、瀬沢はどうだったのだろう。隣室の美女と宜しくやっていたというのなら、瀬沢から詩織嬢への感情は、あるいは薄かったのかもしれない。
 火村は何事か忙しく考えているらしい。沈黙が落ちて私は口を挟んだ。
「瀬沢さんのお姉さんはどうなさってますか?」
「一昨年、亡くなりました。癌やったと聞いてます」
 それはずいぶん若い。問いを重ねる。
「瀬沢さんに、他に係累は?」
 詩織嬢はただ、首を横に振った。いないと言うことだろう。先刻デジカメで見た、瀬沢のどこか幸薄そうな顔を思い出す。薄幸の美女ではなく、薄幸の美男子といったところか。
 やっと火村が口を開いた。
「瀬沢さんは金銭に執着する人ではないとあなたはおっしゃった。それでは何に執着していたんでしょう。あなたと瀬沢さんは兄妹のような関係だとおっしゃった。しかし兄妹では結婚と言うことにはならないでしょう。彼は何を思ってあなたとの結婚を承諾したんですか?」
 思ってもみなかった問いかけだったのだろう、詩織嬢は開きかけた口を閉じた。躊躇った後、再び口を開く。
「それは……花、でしょうね」

「普通の人が生け花を続けるのは大変です。彼は内弟子やったし、うちの父にも目をかけられてて、普通よりは恵まれてたけど……。私と結婚すれば、もっと花を自由に生けられる。――花を生けられなくなる、その心配だけはない……」
 自分で口にして、その自分の言葉に傷ついたような表情をした。
 多分それは真実なのだろう。彼女自身がそう感じている。瀬沢は、詩織嬢が華道家元の娘でなければ、単なる資産家の娘であるだけならば一顧だにしなかった。そういう性格だと言うことだ。
 沈黙を切り捨てるように火村が冷静な声で次の問いを投げた。
「明日の展示会で、瀬沢さんが生けることになっていたのはどんな花ですか?」
 そんなことが何か関係あるのかという表情で、詩織嬢は火村を見る。
「葡萄とパンパスです」
 葡萄はわかる。しかしパンパスとはなんぞや?その前に葡萄を生け花なんぞにするのか?横から口を出すとそんな質問には慣れているのか詩織嬢の口調によどみはない。
「葡萄は豊穣の象徴やし、色味も綺麗やからけっこう華材には使われるんですよ。パンパスはススキに似た植物です。穂は垂れてないんやけど」
「そうですか」
 なぜか私の代わりに相槌を打った火村はさりげなく一撃を放った。
「ところでその葡萄とパンパスは、瀬沢さんの部屋に見あたりませんでした。展示会の練習はなさっていなかったようですね」
 思いもかけない指摘に詩織嬢は衝撃を受けた表情で「わかりません」とようよう言った。自分でそれに気づいたのだろう。その後、詩織嬢は俯いてしまい、視線は我々から微妙にはずされていた。


 


 
 
 1.作家の週末
 2.犯行現場
 3.証言者-1
 4.証言者-2
 5.証言者-3
 6.証言者-4
 7.真相
 8.犯人はあなたです
 9.相思華
  エピローグ
 
 
 

 

素材提供:空色地図