+ 恋と毒と相思華と 6 +


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 かくして私たちは、妙齢の美女(ほんとうの美女だった!)の部屋にお邪魔をしている。
 間田優芽はつやつやと柔らかそうな、栗色にカラーリングした髪を背中に流していた。黒の五分袖のニットに、黒のパンツが細身の体を浮き立たせた。バロック真珠のピアスをつけている。Vネックになった襟元の黒レースはドレッシーで妖艶だが――覗いたわけではない――もしかするとこれは、何も言わず元恋人の喪に服しているのかもしれなかった。化粧は濃い目であったが、それでも普段よりは薄いのだろうと思わせた。モーヴ色の目元だけが濡れたように色濃い。やつれた表情を隠すためかもしれない。彼女が引越しをする予定であったという管理人の言葉を裏付けるように、ダンボール箱が幾つか、リビングの隅に積まれていた。
 床の色が他の部屋と違う、と思ったがそうではなく、明色のフロアボードをひいているのだ。食器戸棚は白で壁の古さを補った。ダイニングテーブルは部屋の広さに不釣合いに大きく、やや急ごしらえの感がある。4人がけのそれは、もしかすると瀬沢がここに来るようになってから揃えたのかもしれない。
 気配がして目をやると、火村は和室に目を向けている。無意識の様子で指が唇に触れていた。スイッチが入ったらしい。その和室を覗けば畳の様子が新しい。畳の上に畳を重ねている。自前で改装を行うことは賃貸では無理だから、工夫を凝らしたのだろう。居心地よく過ごそうという意識がかいまみえる。
 和室には風邪を引いた子供が寝ているからと、間田は我々にLDKのダイニングテーブルを示して襖を閉めた。そのときも黙って閉めたりはせずに子供に一声かけて閉めている。良い母親なのだろうな、と和室を覗いたときの表情で思った。
 戻ってきたときには、やや挑戦的な表情でいた。可哀想に、緊張しきった森下が繰り出す質問を、ざっくざっくと払いはじめた。

「間田優芽さん。29歳ですね」
「はい」
「ご職業をうかがってよろしいですか」
「新地にあるヒュプノスというクラブに勤めております」
「2年前からですね。その前は」
「奈良エティスで総合受付を致しておりました」
 デパートの名を告げる。言葉使いが慇懃なほどに丁寧なのは、そのせいかもしれない。
「前のご主人、七坂雄哉さんと別れた後に、このアパートに移り住んだということでよろしいですね」
「はい」
「そのころから、被害者と交際があったわけではないですか?」
「いいえ」
「では、被害者との交際は、いつからでしたか?」
「今年のはじめからになります」
 非常に取り付く島もない態度だった。冷静だ。森下が焦るのがわかる。いや、しかし私にさえ、焦るのがわかってどうするんだ、森下よ。
「交際のきっかけをお伺いしてもよろしいですか?」
「わたくしが、正月に着る着物を選ぶのに苦労していたところ、助けてくださいました。それからです」
「瀬沢さんにお付き合いしていた相手がいたことはご存知でしたか」
「はい。知っておりました」
「失礼ですが……その上で、お付き合いなさった?」
「はい」
「……瀬沢さんは、そのことについてなんとおっしゃっていました?」
「特には」
「なにか、約束を口にしたわけではないんですか?そのうち別れる、とか」
「いいえ」
 森下が途方にくれているのが感じられた。私だって途方にくれたい。管理人や、吉岡老人の話ぶりでは二人は真面目に交際していたらしいのだが。
「では、交際を解消したときのことを教えてください。瀬沢さんとはいつ、どのように別れたんですか?」
「篠水さんとの結婚の話がある、と切り出されました。10日ほど前です。わたくしは、わかりました、お別れしますと了承しました。それだけです」
「――喧嘩になったり、しませんでしたか?」
「いいえ」
 森下はなんだか泣きそうだ。私だって理解不能だ。割りきった仲だったということなのか?女性はよくわからない。
「瀬沢さんと最後にあったのはいつですか?」
 これにははじめて、間田は考えるそぶりを見せた。
「この木曜日だと思います。ゴミ出しに行って、挨拶しました」
「そのとき会話は、なかったんですか?」
「挨拶だけです」
「その後はお会いになっていない?」
「はい」
「わかりました。これは関係者全員に聞いていることなのですが、昨夜の8時から深夜12時までの行動を教えてください」
「昨日は子供が熱を出したため店を休むつもりでおりましたが、7時半頃店から電話がございました。金曜日で手が足りない。どうしても来てほしい、と。迷いましたが子供は薬でぐっすり眠っておりましたし、支度をして8時前に出かけました。週末ですしタクシーでは時間が読めないと思い、電車を使ってまいりました。近鉄で鶴橋駅まで出て、環状線で京橋、その後東西線で新地へ出ております。店には8時40分ごろ着きました。それから深夜2時過ぎまで店におりました。店にタイムカード等はございませんので、帰りの時間ははっきりしておりますが、着いた時間の証明は、店の者の記憶に頼ることになると思います」
 よどみのない口調だ。冷静に整理された話し方をする。我々が来るまでに練習したのかもしれない。
「家を出る時に誰かと会ったということはありませんか?あるいは道中でもかまいませんが」
「ございません」
 間田のアリバイは先刻、森下に聞いた時に感じたようにかなり微妙だ。8時前にここを出たと本人は言っているが、それが8時過ぎであっても証明する手立てはないという。間田本人もそれをわかっているのだろう。だが、とくに慌てた様子ではない。わかれた恋人が殺されたというのに取り乱しもせず酷く落ちついているのが、瀬沢の婚約者であった篠水詩織と似通っていた。今朝のことに言及されても、取り乱す様子はなかった。
「騒いでる、なにかとんでもないことがおこったことはわかりました。でもだからといって、別れた恋人の家に出ていくわけにもまいりませんでしょう。――女性の悲鳴が聞こえましたし」
 さすがに歯切れ悪く言葉を重ねて、出ていかなかった理由を告げた。詩織嬢に遠慮した、ということだろう。
 火村先生、と言いたげに森下に視線を流されて、火村は間田に尋ねた。
「まず、お尋ねします。瀬沢さんの家の包丁は1本でしたか?」
 篠水に不信がある以上、こちらからも証言をとるべきだろう。間田はあっさりと頷いた。
「はい、そうです」
「篠水さんのことをあなたはご存知だった。篠水さんは、あなたのことを知っていたのでしょうか?」
 つと、間田の唇に笑みが浮かんだ。しばらく考えるような沈黙の後、口を開く。
「詩織さんは本物のお嬢さまですね。顔を合わせても屈託なく挨拶してくれましたよ。知っていたら、もう少し強ばった態度になったと思います」
「篠水さんからコンタクトはなかった?」
「全然気づいてない詩織さんが、何を言ってくるんですか?」
 ごく軽い調子のその言葉に、火村は目を眇めて間田を見た。
「――篠水詩織さんのご家族が、瀬沢さんとの交際について言及してきたことはありますね?」

「ひ、火村先生……」
 森下が慌てたように火村を見た。間田は奇妙に表情を消した目で火村を見ていた。
「はい、ございます」
 簡潔な、返事。それを聞いて私は気がついた。間田はそれまでも聞かれたことにだけ答えるという態度を崩さなかった。当初からそうだったという。瀬沢と付き合っていたことも、訊かれれば答えたと言っていたのだ。
「篠水さんからコンタクトはなかったか?」その答えに否と返さなかったのは、篠水詩織以外の篠水某からコンタクトがあったからだろう。
 火村は非常に難しい表情をしている。
「――すべてを話しては、頂けませんか?」
「必要なことは話していると存じております」
「このままでは、あなたに容疑がかかるでしょう。いや、今もかかっているかもしれない。瀬沢さんを殺した後、いそいで店に行ったと考えることもできます」
「左様でしょう。ですがわたくしは彼を殺しておりません」
「――あなたからの、警察への不審を感じます」
 火村は溜息のように言った。
「過去になにがあったのか。それを取り沙汰するほどの時間はありません。あなたの言葉の中に、事件への重要な鍵があるのかもしれない。それでもすべてを語るつもりはない、と?」
「必要なことは話しております」
 言葉は平行線だった。篠水家の誰が何を言ってきたのか火村が今、強いて問い詰めようとしないのは、そのことの無為を知っているからだ。彼女がすべてを話すつもりにならなければ情報が偏るのは目に見えていた。
 間田は蒼ざめており、切れ長の眼差しに黒々とした睫毛が美しかった。頑なに言葉を繰り返す。黒い服と真珠の耳飾りは確かに彼女が瀬沢の死を悼んでいると知らせるのに。ふっと口から言葉が出た。
「瀬沢さんを、愛していらしたんですか?他に付き合っている人がいても憎めないほど――別れようと言われても、恨めないほどに」
「ウェットな思考ですね」
 はじめて私に眼差しが飛んできた。美人からの直視に赤面する。いや、大阪人にとって、愛なんていう思考は体がむずがゆくてたまらない。しかし待て、彼女は否とは言わなかった。今までのパターンからすれば、これは。
 そろりと彼女に視線を合わせる。彼女は今まで、おそらく嘘を言っていない。訊かれたことには答えている。
「瀬沢さんのことを、あなたはどう思っていらしたんですか?」
 彼女は暫し、考えるふうだった。皮肉に唇が歪む。単純に『好き』や『愛してる』などの表現が出てくるとはとても思えない表情だった。
「そうですね。この髪で――」
 と、彼女は自分の美しい栗色の髪に触れる。
「彼の足を拭いたいと、そう思っていました」

 なにかが閃いた。
「瀬沢さんは、間田さんにとって、救い主やったんですね」
 おや、と間田が視線をよこした。はじめて彼女の中でなにかが動いたのがわかった。薔薇色の唇が軽く開かれ、ひゅっという、吐息とも言えぬ息が洩れた。
「マダレーナ、違ってますか?」
「いいえ――。あっております。博識ですのね」
 思えばはじめから手札は晒されていたのだ。店ではレイナと名乗っていると聞いた時に気づいても良さそうなものだった。
 マダレーナ。
 マグダラのマリアのことだ。娼婦であった彼女はキリストと出会い、それまでの自分を悔いあらため、キリストに従うこととなる。彼女のエピソードの中で最も有名なものは自分の美しい髪でキリストの足を拭ったことだ。敬愛をこめて。
 自分でレイナと名乗りながら、彼女が鬱屈を抱えていたことは想像に難くなかった。昼の仕事をしていた彼女が生活のためにクラブへ働きに出なければならなかった。娼婦の名をあえて名乗り、自分の中の何かを守るように生きてきた。そんな彼女の前に瀬沢が現れた。
 次に何を言えば良いのか、私は迷った。だが、彼女は何かを吹っ切ったらしい。姿勢を正し、私を見た。その目の中に猜疑はなかった。
「何を、お知りになりたいですか?」
「すべてを。瀬沢さんのことを。それから、あなたのことを」
 間田は震えた。俯き、何事か考えるふうだった。
「長くなります」
 そうして間田は、語り始めた。

 わたくしがここに越してきたのは、おととしのことです。年末でした。先ほどお伝えしたように、夫と離婚したためです。聡がおりますが、養育費はもらいませんでした。――ええ、もらえなかったのではなくもらわなかったのです。離婚の原因は夫からの暴力で、これ以上の関わりを持ちたくありませんでした。よくあることですのでそんな顔をなさらないで。先ほど、そちらの方が指摘なさった警察への不信、それはこのときのものです。民事不介入って便利な言葉ですのね。殴られた痕があっても、腕を折られても、警察は「あまり派手なことはやめなさいよ」と笑いながら帰っていきました。――ええ、笑いながら。私が、裸足で、聡を抱えて駆けこんでも何もしてはくれませんでした。かえって夫に連絡をした時には、警察を信じるのはやめようと、そう思いました。――ああ、そんな顔をなさらないで。これは単なるヤツアタリですから。
 本題に入りましょう。彼のこと、ですね。わたくしが越してきた時には、彼もこちらに越してきておりました。そのときは単なる隣人でした。それはそうでしょう。わたくしはそのころ男性に恐怖めいたものを感じておりましたし。それがいつから変わったかと訊かれれば、それは去年の初夏のことです。
 わたくしは聡を必死に育てておりました。聡はおとなしい子供で、それはわたくしへの夫からの暴力を見つづけたせいかもしれません、わがままを言う子供ではありませんでした。わたくしの父は娘が離婚したことを恥というような人で、母はいつも父に従い、おろおろとしておりました。縁を切ると言い渡されており、そのために聡は甘やかしてくれる大人を持ちえませんでした。わたくしは聡が甘い物に飢えていることに気づかないほど必死な母親でした。――刑事さん方、このアパートに見えるときに表の生垣につやつやとした緑の葉っぱがあることに気がつかれました?あれはコケモモです。初夏には濃いピンクの実がみのります。ある夕方、聡がその実を取って口に入れた時に、わたくしはパニックに陥りました。コケモモだと、食べられるのだと知りませんでした。必死で聡の口をこじ開けようとしているところに通りかかったのが信之さんです。彼はわたくしを宥めて、――ええ、それだけだったなら、それだけのことで終わったでしょう。管理人さんに許可をとって実を摘んでジャムにして、聡に作ってくれたのです。
 それから彼は、聡のことを気にかけて見てくれるようになりました。散歩の時に会うと、他所のお宅に入っていって頼んで生っているイチジクや枇杷、柿なんかをわけてもらうこともありました。彼はそういうときまるで屈託がなく、聡に黙って採ってはいけないことを行動で示していたのだと思います。それは彼自身の子供時代を思ってのことかもしれません。貧しかったのだと聞いたことがあります。
 そんな果実とは逆に、放っておかれている花なんかは、彼は黙って切ったりもしておりました。もっとも手入れをされた薔薇などには手を出しませんでしたが。外に出るときはいつも花切りバサミを持っていたようです。「花盗人に、罪はない」歌うように口ずさんでいたことを覚えております。そのときわたくしは彼が、華道を志していたことを知りました。夕暮れ道を歩きながら、彼がシュウメイギクや、山茶花を愛しそうに手折っていた光景は忘れられません。手折られた家の人も、知っていたのではないでしょうか。咎める気にもならないほど彼は幸福そうでした。それをそっと見ていたころが、わたくしにとって一番幸せだったのかもしれません。幸か不幸か、わたくしと彼の距離は近づいておりました。一番の原因は聡で、わたくしが体調を崩したときなどは彼は気づいて聡を預かってくれるようになりました。わたくしにとって非常にありがたいことでした。
 今年の正月のことです。わたくしは店に着物をきていくことになっておりましたが、店はああいう、妍を競う世界です、同僚に真っ当な助言など望めませんでした。そのことをこぼした時に、信之さんは京都の古着屋を紹介してくださいました。少なくとも3枚は買わなくてはならない――。そう言われ、そう思いこんでいたわたくしに、レンタルの方法を示してくださいました。クリーニングをどうすればいいかと相談すれば、あっさりと宅急便で送れば良いという。そうした世界に非常に明るかったのです。着付けに関しても相談したのは自然なことだったと信じております。彼は、自分ができるからしてあげようかとごく軽い調子で言いました。お互いに下心はなかったと、今も考えますがわかりません。彼とわたくしの間に肉体関係ができたことは結果として事実です。
 わたくしは彼に好意を抱いておりました。わたくしが苦しくて苦しくてたまらなかったときにそっと手を差し伸べてくれたのです。なんの見かえりもないそれはわたくしにとってほとんど感動とも呼べるものでした。けれどわたくしは彼の元に身なりの良い良家のお嬢さんが通っていることを知っておりました。彼が乗り気でないことは、なんとなく感じておりましたが、後にその人が、華道の家元の一人娘だと知ったとき、わたくしは、彼が別れたいと言ってきたときには黙って別れようと決意しました。乗り気でない彼が篠水さんを切り捨てられなかったのは、華道への執着ゆえだと思っております。これも恋に狂った女の思い込みかもしれませんが。
 春がすぎて、夏がすぎて、秋が来ました。彼はなにかを思い悩んでいるふうでした。わたくしは尋ねませんでした。まってまって、そして彼はやっと口にしました。10日前のことです。篠水詩織さんとの結婚話が出ている、と。
 わたくしは、一日だけ考えさせてくれと言いました。結果は出ておりました。ただ、自分を納得させる時間がほしかったのです。そして次の日、彼に別れを告げました。花を生けつづけてくれと言いました。遠くにいても、彼が花を、こんな場所でも捨てきれない花を好きに生けていくと思うなら本望でした。彼は苦しそうな顔をして、それでも黙って頷きました。
 彼がこの部屋に最後に生けていった宮城野萩が散りきったころ、我が家に一人の客人がございました。篠水和子さんと名乗りました。ええ、詩織さんのお母様です。彼女はわたくしに、信之さんと別れるよう言いに見えたのです。
 わたくしは、信之さんとは別れたと告げました。篠水さんは信じませんでした。お金目当てだろうとおっしゃいました。わたくしが断るのをむりやり50万円を押しつけていかれました。――刑事さん?どうなさったんですか?
 はい、ええ。続けます。
 わたくしはどうしようか迷いました。お金を受け取るわけにはまいりませんでした。わたくしの彼への感情をそんなふうに汚される謂れはありません。けれど直接言っても受けつけないだろうと、それはわかっておりました。それなら方法は一つしかありません。わたくしは信之さんに電話をかけ、事情を告げました。昨日のことです。――ええ、最後に会ったのは木曜日です。挨拶だけしかしておりませんよ。騙されたと言われても困りますが。履歴は確認してあります。昨日の7時33分でした。
 子供が風邪で寝ている間に店に行く支度をして、なんて酷い母親だろうと思いながら8時前に家を出ました。そして彼の家の新聞受けに50万円を放り込んでおきました。そこから先は、刑事さんがご存知の通りです。

 間田の話は予想外のことばかりだった。何から整理すればいいのかわからない。だがとにかく、彼女が瀬沢と割り切った付き合いをしていたわけではなかったことがわかって私は幾分ほっとしていた。何故といわれても困る。ただ、木で鼻をくくるような返事をしているときとは違って、瀬沢も、間田もひどく人間らしいと思った。先刻までの、何を考えているかわからない薄気味の悪さはなかった。
「確認があります」
 考えこんでいた火村がゆっくりと問いかけた。
「202号室の新聞受けに入れたという50万円ですが、何か特徴はありましたか?有り体に言えば篠水さんを示すものです」
「……ええ。……ええ、そうですね。古袱紗に包んだまま置いていかれたので、そのまま彼の家に持ってまいりました」
 そうか、とやっと詩織嬢の態度のわけがわかった。そして、まさか。
 火村を見ると凶悪な顔で舌打ちしている。
 詩織嬢は小さなゴブラン織りのバックを持っていた。ハンカチとちり紙、口紅ぐらいしか入りそうにない小さなバックだ。その中にはおそらく、50万円の外側、袱紗だけが入っているに違いない。おそらく50万円までは入りきらなかったのだ。そして、そんな中身のために、もしも所持品検査があったとしても警察の目も誤魔化されたに違いない。華道の家元の娘の必須な持ち物だとでも言われたら誰も対抗しえないだろう。
「やられたな。――あとは、そう、一応包丁を見せていただけますか?」
 彼女は静かに席を立って、流しの下の扉を開いた。ポケットには貝印の万能包丁が一本かかっている。
「結構です。――それからこれは、できれば許可を頂きたいのですが」
「なんでしょう」
「聡君と、話をさせてください」
 間田は無言で火村を見た。私を見、森下を見た。

「事件について、言及しないことを約束くださいますか?」
「確約します」
 火村が即答したのがよほど意外だったのだろう、間田はとっさに反応できないようだった。
「私が知りたいのは一つです。聡君が夕べ、物音を聞いたかどうか」
「――起こします」
 間田は襖を開いた。その向こうの布団では、紺のチェックのパジャマを着た男の子が座っていた。手にはレゴのブロックを持っている。
「さーとーしー。寝てなきゃだめじゃないの」
「ごめんなさい」
 眉を八の字にして上目使いにこちらを見るのが愛らしい。頬がぷっくりして、見るからに愛情を注がれている。間田は腰に手を当て、ちょっと溜息をついた。売れっ子ホステスの顔が母親へと切り替わる。
「まあいいわ。このおじさんが聞きたいことがあるって言うの」
 ぱっと子供がたちあがる。バランスを崩してこけそうになるのを間田が支えた。
「ゆっくり。横になって」
「怪我をしてるのか?」
「膝に水が溜まってるってお医者様は言っていました」
「……膝に?」
「ええ」
 間田は溜息をつく。火村は……火村は真剣な顔で黙りこんだ。何事かを忙しなく考えているのがわかる。視線が固まったままだったからだ。
「あの?」
 不審げな間田の呼びかけに戻ってきたらしい。表情を和らげ、子供の前に膝をつく。
「間田聡くんだね?」
「うん」
「熱は下がったかな?」
 子供はチラッと母親を見た。甘えるような眼差しだった。間田はくすっと笑う。表情はやわらかい。母親独特の甘さの滲む表情だ。
「もうっ。――今朝には下がってたみたい」
「うん。聡君に聞きたいことがあるんだ。昨日、となりの部屋のおじさんがここにこなかったかな?」
 いきなり変化した質問に、私は呆気にとられた。間田ですらとっさに言葉がない。
「きた」
 更に驚いた。何故わかったのだ?
「いつごろか、わかるかな?」
 子供は首を傾げていた。番組名を挙げた。金曜の夜9時からやるクイズ番組だ。間田が慌てたように子供を見る。だが咎めなかった。必要な質問であることを理解したのだろう。子供の手をぎゅっと握る。
「膝を怪我したの?って言わなかった?」
「ゆった」
「聡君はなんて答えたのかな?」
「ひざにみずがたまっとる」
 棒読みだった。意味もわからず、おそらく医者に言われたままを繰り返したのだろう。
「他には何か言ってたかな?」
「かあさんは?って」
 間田が息を飲む気配がした。震える手で子供の手を握ったまま、間田は気丈に耐えた。子供は母親の動揺に躊躇ったらしい。口を噤む。
「いいの。答えて。なんて言ってた?」
「しごとって。あしたくるってかえった」
 おそらく前半は、子供から瀬沢への返答で、明日また来るというのは瀬沢が言った言葉だろう。
「それからもテレビを見ていたのかな?横になったままだと目が悪くなるよ」
「……でんきつけてた」
 子供は少々ばつが悪そうだ。首を竦めている。ということは横になったまま見ていたのかもしれない。夕べは熱があったというのなら、起きてずっといるのはだるかっただろうから仕方がないだろうが。だがその仕草は、聡少年が本当にきちんと育てられている証左に思えた。だから間田が犯人でないなどとは言わないが。
「その後、なにか音を聞かなかったかな?どすんっていう音」
 火村は努めて穏やかに言葉を紡ぐ。聡少年は考えるふうだった。
「きいた」
「……いつか、わかるかな?」
「まおちゃんのうたのとき」
「一番はじめのコマーシャルです……っ」
 悲鳴のように間田が告げた。
「そうか。わかった。……ありがとう」
 そっと、火村は立ちあがった。間田には声もかけずに和室を出た。私もそれに続いた。森下刑事がありがとうございました、と小さく声をかけていた。間田はうつむいたまま子供を抱きしめて応えることはない。201号室を辞した。

 


 


 
 
 1.作家の週末
 2.犯行現場
 3.証言者-1
 4.証言者-2
 5.証言者-3
 6.証言者-4
 7.真相
 8.犯人はあなたです
 9.相思華
  エピローグ
 
 
 

素材提供:空色地図