+ 恋と毒と相思華と 9 +


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「署でお話を伺いたいのですが」
「待ってください」
 日枝に告げた鮫山を火村が止めた。
「いまひとつ、ここで明らかにしたいことがあります。瀬沢が殺されることとなった原因です」
 はじめて日枝の目に動揺が走った。火村を、畏れを含んだ目で睨んだ。それは私にも馴染みのあるものだ。今までに火村を糾弾した殺人犯たちとそっくり同じ色がある。はじめて彼女が瀬沢を殺したのだと実感する。
「瀬沢の、昨日の行動を追いましょう。そこにこそ彼が殺されなければならなかった理由がある」
 淡々と火村は言った。少し待て、と私は思う。
「計画殺人やないのか?」
「衝動殺人だったのさ――思いついて、逆上して、手元の包丁を持って瀬沢を訪ねた。――日枝さん、瀬沢さんは気づいたわけじゃなかったんですよ」
 それがなにを意味するのか。日枝は突然、真っ青になった。しかしそれでも冷静だった。
「話しませんか?」
「なにを?」
 火村に返す言葉は硬く短い。余分なことは一切話さない。これが日枝の本質なのかもしれない。
「では言いましょう。昨日の瀬沢の行動のうち、わかっていることをピースで当て嵌めます。まず彼は、花屋に夜7時ごろまでいた。真っ直ぐ帰ったなら7時半前には帰宅した。
7時33分。間田が瀬沢に電話している。このことから瀬沢がほぼ真っ直ぐ帰ったことがうかがえます。間田の電話の内容は、篠水家から瀬沢と別れるようと言って、50万円を渡されたこと。そしてそれを篠水家に返すことを瀬沢は頼まれた。さて、ここからは少し飛びます。
9時すぎ。瀬沢は間田の家に行った。このとき瀬沢は聡君が膝に疾患を持っていることに気がついた。
9時15分頃。殺された。――アリス、9時15分でいいか?」
「9時20分ぐらいや。あの番組は1回目のコマーシャルまでが長い」
「じゃあ9時20分。しかしこれはあまり変わらないでしょう」
 ガクッとこけそうになった。じゃあ訊くな。というか、何故私にそんなことを尋ねる。クイズ番組だから見たことあるとでも思ったか。……確かに見ていたのだが。
「一つ、わかっていることがあります。瀬沢はヒガンバナを根こそぎ抜いた。地下茎――球根といったほうがわかりいいでしょう――が2つ、瀬沢の部屋から発見されました。畔を掘った痕跡に警察も調べのでしょうが、抜いたまま土が見えて埋め戻した痕跡はなかったので犬か何かが掘ったと思ったかもしれません。ところでこのヒガンバナの球根ですが、膝の疾患の民間治療に使われます。――ということは、聡君と会った9時以降に瀬沢はヒガンバナの球根を掘ったことになる。
さて、さらに逆算します。瀬沢はヒガンバナの花をバケツ2杯切って自室に持ち込み花を生けています。これには、一時間はかかると華道家元が断言しました。そしてその意味について、篠水詩織との婚約を白紙に戻すことだとも。これがいつ瀬沢の部屋に持ち込まれたか定かではありませんが家元の『婚約を断る決意』の言葉が示すことを鵜呑みにするならば間田が電話をした7時33以降であったことがうかがえます。もしその前に婚約を白紙にすると決めていたなら間田が電話をした時に何らかの発言があったでしょう。
さあ、並べてみましょう。
7時半前に帰宅。7時33分に間田から電話。ヒガンバナを生けるためにヒガンバナを切りに行く。最も近くに見えるのはこのアパートの裏の田の畔。それから一時間かかって花を生ける。花を切るのに30分かかったとして併せて9時。9時過ぎに間田の家に行く。それから戻ってヒガンバナの球根を掘る。9時20分に殺された――アリス、キーワードは?」
「ヒガンバナ」
「そう――ついでに言うなら、もう一つ、予測できることがある。間田は引っ越す予定だったが、これを瀬沢は知らなかったと仮定しよう。二人は別れていたのだから、これは推測でなくほぼ決定だ。ところが我々が201号室に入ったとき、間田は隠す必要性を感じなかったんだろうな、ダンボール箱を部屋の角に積んだままでいた。瀬沢が夕べ、訪ねた時も同じ状態だったと思われる。瀬沢はそのとき間田が引っ越すことを知った。間田は仕事に行っている。さて、間田本人の他に引越しの日程を知っていると思われるのは――アリス?」
「管理人」
「That's right. 瀬沢はおそらく、良識のある人間だったと思われる。例えば、間田が引越しを予定していることを知って、ほとんど衝動的に管理人の部屋に間田の引越し日程を訊きに行った。けれど『いや、間田と話をするほうが先だ』と思い返して、何も言わずにそのまま帰ってしまうぐらいには」
「――大学の先生辞めて、小説家にならはったほうがええ思いますよ」
 声だけは冷静な日枝は、目つきが火村を畏れている。火村は――、小説家というセリフにいつもならば憎まれ口の一つでもたたきそうな火村はそれをしない。
「瀬沢の行動から、ここだけを抜き出してみよう。瀬沢はヒガンバナを切りに行った。一旦自分の部屋に入って一時間出てこなかった。更に畔に、ヒガンバナの球根を掘り返しに行った。管理人の部屋に入った。何も言わずに部屋に帰った。殺された。ほとんど足取りが辿れます――なんだ?アリス」
「管理人の部屋に行ったって断言できるんか?引越しの準備に気づいただろうっていうのは納得できるけど。それに何で管理人の部屋に行って何も言わなかったって言えるんや?何か言ったかもしれんやろう?」
「かもな。けれど俺が今言ったことに多分間違いはないのさ。――何故なら瀬沢は殺されている」
 どういうことだ?
「私が推測するのはこうです――ヒガンバナの根元には、秘密が眠っていた。人を一人殺しても守らなければならない秘密がね。だからそれに勘付いたと誤解されて瀬沢は殺された。逆に瀬沢が、間田の引越し日時を教えてくれなんて言っていたら誤解されることはなかった」
 人を殺しても守らなくてはならない秘密?そんなものあるのか?
 火村は私を見た。酷く憂鬱そうだった。
「あるのさ」
 こんなとき私は、火村と私の間には名状し難い隔たりがあるように思えてひどくもどかしかった。彼にはわかっている。知っている。犯罪者の心理だと言うのに、彼はそれを辿ることができるのだ。
「人を殺しても守らなくてはならない秘密――ヒガンバナを畔いっぱいに植え、犬やモグラが掘り返さないようにし、花がある時期と葉がある時期が違って、どちらの時期も人がその上を歩かない。あるいは歩くことを躊躇う。
あの花に死人花と呼ばれる異称があることをご存知ですか?」
 ――まさか。
 日枝の返事はない。何一つ喋るまいとするかのように彼女は口を真一文字に閉じている。
 火村はふらりと、垣根の途切れたところから田んぼの中へと歩いていった。戻ってこようとする捜査員たちの近くへ分け入った。森下に声をかけ、彼らをそこに留めると畔に上がる。こちらへは目もくれない。ゆっくりと歩く。
 日枝は目を閉じていた。火村の歩く場所を目にして動揺することで、場所を知らせてしまうことを畏れたのだろう。けれどそれに意味はない。火村は自分の足元しか見ていなかった。
「わかるんでしょうか」
 冷静な鮫山の言葉が隣りでした。それは私に問いかけたというよりも、独り言のようだった。私は答えなかった。わかるのだ、と心の中で哀しみとともに呟いた。彼は何かを埋めた痕跡を探しているのではない。犯罪者の思考を追っているのだ。埋めた場所を探しているのではなく、埋める場所を探している――自分のものとして。
 ピタリ、と火村の足が止まった。唇が動いて森下に何かを伝えた。翳になった横顔の示す表情は読み取れなかった。捜査員たちが畔に上がり、慎重にスコップを操る。半信半疑なのか、おそるおそるのそれが、あるひと掘りを境に熱気づいた。森下が駆けて来る。
「白骨死体です」
 窓際で、日枝は崩れるように座りこんだ。何故、という言葉がその唇からこぼれたように思われた。


 火村は、ヒガンバナの真ん中に立ち尽くしている。鑑識がボードを置き、写真を撮り、忙しく立ち働く合間を、それも見えぬ様子で現れつつある犯罪の痕跡に見入っていた。瞬きすら忘れたような火村にその場所を譲れとは誰も言わなかった。
「日枝明子さん。署で話を伺いたいのですが」
 鮫山が穏やかに告げた。
 まだ、彼女は容疑者の段階を出ない。しかし虚ろな眼差しからは先刻までの反駁の気概が感じられなかった。火村の放った真実という矢に縫いとめられている。
 日枝が連れていかれ、私は一人、ヒガンバナの咲き誇る畔に立つ火村を眺めていた。緋色の花の真中に立つ火村は、一人きりに見えた。彼は自分の足元を覗いているように思えた。死体の埋まっていた穴ではなく、自分自身の足元の深い深い暗闇を。私には想像もつかない深い昏い淵を。

 ――相思華。

 あぶくが浮かび上がるように、一つの言葉が記憶の底から浮かび上がった。
 彼岸花、死人花、花見ず葉見ず、――そして、相思華。
 それは彼岸花の異称だった。
 花は葉を思い、葉は花を思い、けれど出会うことはない。
 そんな謂れを持つ花だった。今の私たちを映すように咲き誇る。

 けれど私は花ではないし、火村もまた違うのだ。黙って思ってなどやらない。そんなのは私のガラではない。
 私は垣根を越えた。歩き難い畔の、それでもヒガンバナを踏まぬように火村の元へと急ぐ。火村の目をこちらへ向けさせるために。そんな足下の暗闇など蹴飛ばしてしまえばいい。祈るように声をかける。
「火村」
 ゆっくりと、火村の目が足下から私へと移る。アリス、と動く唇を、奇蹟でも見るように眺めていた。


 

 
 
 1.作家の週末
 2.犯行現場
 3.証言者-1
 4.証言者-2
 5.証言者-3
 6.証言者-4
 7.真相
 8.犯人はあなたです
 9.相思華
  エピローグ
 
 
 

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