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ヒガンバナの下から見つかったのは、10年前に失踪したとされていた日枝の夫だった。3年前に死亡宣告が出ている。けれど時効にはまだ遠い。火村の指摘はあたっており、彼女は瀬沢がその秘密を知ったと誤解し、逆上して殺してしまったのだ。間田が部屋にいると思ったのも犯行を後押しする要因だったのだろう。事実、間田に容疑の目は向けられていた。誤算は間田が店に出勤したこと、そして何より火村の登場に違いなかった。もっとも火村は言う。
「日本の警察は優秀だぜ。死体がないならともかく、あるならそう簡単に誤魔化されるもんか」
そうかもしれない。けれどやはり時間がかかったのではないかと思う。日枝は管理人だけあって清掃作業のポイントを知り尽くしていた。引越しがあったときに使う業務用洗剤で自室を洗浄していたのだ。シンクや風呂場のトラップまで外して洗浄し、通常なら残るはずの血液反応が出なかったのだから恐れ入る。
ここまでしておきながら、火村に叩き落された日枝は、もう黙秘をすることもなかった。取調べには火村も立ちあったという。彼女の写真もまた、火村のアルバムに加わることとなるのだろう。その先を私は知らない。
「有栖川先生、火村先生!」
手を振る詩織嬢に頭を下げた。今日、我々は瀬沢の追悼華展に来ている。10日前に瀬沢が生けるはずだった展示会の会場だった。ぽつぽつと人がまばらに入る入り口を抜けて、壁にかけられた4つ切りの写真パネルの前に立った。そこには瀬沢の生けた花の記録がある。内弟子であった時期のものがほとんどで、写真を撮ったのは詩織嬢だと言う。
「昔から、彼の生ける花に憧れてました。自由で、情熱的で」
詩織嬢の言うとおり、パネルの中の花たちは、水盤であれ投げ入れであれ非常に印象的な色合いをしている。まとまっているというのとはまた違う、伸びやかで、感性に訴えかけるたぐいのものだ。こうして瀬沢の生けた花々をみれば、あの、事件現場のヒガンバナを生けたのが瀬沢だというのは納得できることだった。
「お二人には感謝しているんです。葡萄とパンパスも見つけてくれましたし」
「そうそう、有栖川先生のお手柄だよな」
ニヤニヤ笑いながら言う火村の脇腹に肘を打ち込む。反論は出来ない。事実だからだ。
あの日、事件現場を辞した我々は、堅下駅前の葡萄狩りに向かった。殺されたのが死亡宣告を受けた人間だったため、逮捕礼状が出るのに時間がかかるというのでその待ち時間に火村を引きずっていったのだ。嬉々として向かった葡萄棚の下で、台に置かれた備前の壷に葡萄とススキが生けられているのを発見した時には唖然とするより仕方なかった。
「さすがアリス!」
火村は笑い転げていた。私は憮然としながらも心の底でほっとしていた。笑えるのなら、大丈夫だ。
葡萄畑の持ち主に聞けば、それは瀬沢が夕べ「もう要らないから」と置いていったものだという。生け込みの練習をするのに、ここの葡萄を使っていたのだ。
最後に目撃された瀬沢はひどく静かな様子だったという。
この夜、彼は何を考えたのだろう。
詩織嬢はもう、瀬沢に他の恋人がいたことも、自分がおそらくは選ばれなかったということも知っている。それでもこうして、我々を案内する姿には瀬沢への愛しみが溢れていた。
一枚のパネルの前で足を止めた。
それは事件現場に残された、ヒガンバナの水盤だった。
ほの暗い床の間に、秋のおだやかな午後の光が降り注ぐ。
真っ直ぐに伸びる茎。葉物の一本もなく、いっそ潔いほどにヒガンバナだけを生けている。瑞々しい赤い花弁の先には光の粒が煌いていた。禍禍しさは微塵も感じられなかった。
ふと、隣りに立つ男を眺めやる。
「なんだ?アリス」
「いや、綺麗やな思て」
「そうか?」
火村は首をかしげている。
君にどこか似ている、と思ったのだ。
底に毒を持ち、死人の傍に咲いて、人によっては忌むこともあるかもしれない。
けれど花はただ、そこに咲いているだけだ。痛々しいほど真っ直ぐに。
綺麗だと思うのも、禍禍しいと思うのも、見る人が何を投影するかで決まる。
花にとってはきっと関係ないことなのだろう。
「綺麗や思うよ」
もう一度、呟く。
視界の端に間田が、子供の手をひいてやってくるのが見えた。詩織嬢に気がねしたのだろう、ベージュの、ごく落ちついたスーツを着ていたが、それでも彼女は夜の気配が強かった。治療をして、聡君の足は無事良くなったらしく、ほとんど違和感のない歩き方をしている。気遣って、間田がゆっくりと歩くので逆に彼女の足がどうかしたのかと疑うほどだ。すれ違うようにパネルの前を譲った。間田の会釈にこちらも会釈を返す。声はかけない。間田は静かに、黙祷のように長い時間をその場所で過ごしている。
事件の後で間田は語った。
「わたくしは間違っていたように思います。彼を愛していたのに、尊敬と崇拝で扱おうとしてしまった。生身の彼と向きあってきちんと愛するべきでした」
どきりとするほど、それは私を揺さぶった。
私は火村と、生身の火村ときちんと向かい合っているのだろうか。
火村の、夜を引き裂く悲鳴と対峙するだけの勇気はまだない。
それでも強く見えてどこかしら脆い、私にとってひどく気がかりなこの男を何かの枠に嵌めて見るようなことはすまいと思う。
「――なんや?この手は」
いきなりするりと右手をつかまれて、その手を見て、火村を見た。どこかで聞いたセリフだな、とちらりと思う。
「そういう気分だったものでね」
唇に皮肉な笑みを引っ掛けた火村は淡々という。
「どんな気分や」軽くツッコミ返しながらも繋がれた手を振りほどいたりはしない。不器用なほど真っ直ぐに生きるこの男に心のうちが伝わればいい、と思う。
「――このあとどうする?」
「決まっとる!葡萄狩りや!」
前回のそれでは、瀬沢の残した壷を見つけてしまったために、証言者と証拠品の報告へ泣く泣く葡萄狩り園を後にしたのだ。リベンジである。
「仰せのままに」
芝居がかって大仰に、火村が頭を下げる。
終わった事件に背を向けて、秋の午後へと歩き出した。
了 (2008.4.5 彩)
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